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2014年11月11日火曜日

どうせ死ぬなら正しいことのために

昨日、ブラジルのゴミ集積場で働く少年3人組の物語を描いた映画「トラッシュ」を、試写会でみた。ゴミ山やスラムの子どもたちをテーマにした映画はこれまでにもいくつかつくられたが、この作品はミステリー風のストーリーが面白く、重いテーマを扱っているが、エンターテイメントとして楽しめる。

話の筋をものすごく簡単に言うと、こうだ。

スラム暮らしの少年たちは、ゴミ山でお金とコインロッカーの鍵、アニマルロト(動物の絵がかかれた宝くじ)、数字のメモがかかれた父娘の写真などが入った財布を見つける。それは、ある政治家の汚職を暴くために命がけで証拠を盗み隠した男が、汚職追及の鍵となる品々を入れた財布だった。そのため、彼らは汚職政治家の手下である警察に、財布を渡せと脅されるが、殺されかけても死にかけても、それに従わない。そして、財布の持ち主が伝えようとしたメッセージを読み解くために、あらゆる危険を承知で闘うのだ。

ブラジルだけでなく、第三世界の多くの国々に、解消されない貧富の格差、企業/団体から汚職政治家への不正献金問題、金と権力にコントロールされている警察の腐敗といった問題は、常に存在している。それに憤慨し、解決を目指した闘いを挑む市民も、少なからずいる。日本に比べれば、ずっと多いだろう。が、その市民の声は問題を解消するだけの力を持ちきれずに、今に至っているというのが現実だ。最も貧しい人々は生きるのに必死で、社会全体の問題に取り組む余裕がないし、裕福な人々は自分たちの平和と幸福を維持するためには「問題」に本気で取り組まないのが賢明だと知っている。

そんな状況をふまえて映画の主人公たちの言動をみると、ふと考えさせられる。彼らはあそこまで命の危険を感じながらも、なぜ正義のために闘おうとしたのだろうか?と。もちろん事件には大金が絡んでおり、うまくすれば自分たちもそのおこぼれに預かれるかもしれないという目論みもあったかもしれない。が、それにしても、安全にお金を手に入れるのなら、財布を渡して警察が提示していた「謝礼」をもらったほうが、簡単だったに違いない。だのになぜ?

その答えはもしかすると、彼らのような貧困層の子ども・若者に社会が与えてきた人生の選択肢は何か?ということを考えることでみつかるのかもしれない、と思った。
これはあくまでも映画のお話、フィクションで、実際には恐らく大抵の人間が「安全にお金をもらう」ほうを選ぶだろうが、ここで敢えてそうではないケースを映画の題材にしたことの裏には、もしかすると、その「選択の理由」を考えてほしい、という製作者の思いがあったのかもしれない。

私の勝手な解釈だが、少年たちが命がけで「正しいことをする」ことを選択したのは、同じ命がけなら、そっちのほうがいいじゃないか、かっこいいぜ!と思ったからではないか。

ブラジルのスラムが危険極まりない場所であることは、映画「シティ・オブ・ゴッド」でも描かれている。ブラジルに限らず、多くの第三世界の国々で、スラムの子ども・若者たちは、理不尽な政治や犯罪によって、簡単に命を落とすことのある運命のもとに生まれていることを、よく知っている。つまり、いいことをしていても悪いことをしていても、わりと簡単に死が訪れるかもしれないという予感を持っているのだ。
ならば、正しいことをするほうが、価値がある。
そう考えたのではないだろうか?

これまでに出会った路上の子どもたち、スラムの子どもたち、その多くはこちらがヒヤヒヤするような危険なことを、平気でやる。車がガンガン走る通りを、平気で横切ったり、高い塀の上を踊りながら歩いたり。でも、そんな感覚がもし、社会を変える、すごいことのために活かせるなら、そっちに挑んでみようぜ!そんな思いが、この映画の主人公たちを動かしたのではないか。子どもたちの姿を思い出すと、そう思ってしまう。

ほんとうは、どこの国の子どももおとなもみんなが、「どうせいつか死ぬのなら、正しいことのために闘おう」という意識を持っていれば、世界はもっとずっとよくなるに違いない。










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