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2014年11月26日水曜日

JK産業と中米のギャング団

先日、自らもJK産業に関わっていたことがあり、現在は女子高校生(JK)を支援する団体を運営する女性が、その実態とそこに関わる少女たちの心の問題を語った新聞記事を読んだ。そのとき、頭にふと、「構造が同じじゃないか!?」という複雑な思いが浮かんだ。9月に取材した中米の凶悪な若者ギャング団、Marasの問題と同じ臭いを感じたのだ。

Marasとは、中米を中心に恐れられているギャング団のこと。最も有名な二つ、MS-13とM-18というマラスは、メキシコの麻薬戦争の主役たち=麻薬カルテル同様に、「多国籍」な組織として活動し、麻薬や武器の密売、誘拐、人身売買、強盗、殺人など、あらゆる犯罪に関わっている。カルテルと組んでいるグループもある。(詳しくは12月と1月に出る岩波「世界」と週刊金曜日の記事を参照。)

そんな恐ろしいギャングとJK産業が同じ!!??と思うかもしれないが、ギャング団のメンバーは女子高生と同世代、ティーンエイジャーがメインで、マラスに入っていなければ、ごく普通の子ども・若者たちだ。ただ、ひどく貧しく、家庭に問題があり、安心できる居場所がないために、仲間とお金と庇護を提供してくれるマラスにひかれる。やっている犯罪は凶悪だが、一旦そこにハマってしまうと抜けられず、徐々に痛みを忘れてしまうという。なぜなら、もともと社会に対する恨みや怒りを抱えており、愛情に飢えていたところへ、ギャング団が「家族のような」ケアを与えてくれたからだ。

JK産業では、スカウトが優しく親切に話をきき、店長も声をかけてくれるし、オーナーも時々気遣いをみせてくれる。この3点セットで、少女たちは自分のことを大切に思ってくれている人がいる、居場所があると感じるという。それはマラスが提供しているものと、同じだ。もしもマラスが日本で活動するとすれば、凶悪犯罪ではなく、もっと別の商売を考えただろう。日本では中米で起きているような暴力犯罪を広げる社会的基盤がない。つまり、ギャングとJK産業は、商売は異なっているが、そこで働く若者たちが抱える問題とそれを利用して組織を拡大していく構造は、同じだということだ。

「(真実を)きちんと理解していないために、路上で死んで行く」
キリストの教えに導かれてマラスを抜けた若者たちがyou-tubeで流しているラップの歌詞は、そう繰り返す。「本当は、真の思いやりも友も尊厳も得られずに、罪のない人を傷つけ、路上で死んで行く人生なんて、望んでないはずだ」と、語りかける。大切なのは、一時の感情に流される、だまされるのではなく、自分にとっての真実、世界の真実をきちんと理解したうえで、生きる道を選ぶことだ、と。

ラッパーの青年たちは最後に、神の教えに耳を傾けようと歌うが、それはキリスト教信者としての言葉で、JK産業の少女たちには関係ないかもしれない。が、何を信じるにしても、まずは真実を理解することが大切だということは、間違いない。

日本の子どもたち、若者たちは、凶悪なギャングにはならないかもしれない。が、抱えている心の問題は、中米のギャングとなった若者たちと変わらない。その事実が意味することの重さを、考えずにはいられない。




2014年11月11日火曜日

どうせ死ぬなら正しいことのために

昨日、ブラジルのゴミ集積場で働く少年3人組の物語を描いた映画「トラッシュ」を、試写会でみた。ゴミ山やスラムの子どもたちをテーマにした映画はこれまでにもいくつかつくられたが、この作品はミステリー風のストーリーが面白く、重いテーマを扱っているが、エンターテイメントとして楽しめる。

話の筋をものすごく簡単に言うと、こうだ。

スラム暮らしの少年たちは、ゴミ山でお金とコインロッカーの鍵、アニマルロト(動物の絵がかかれた宝くじ)、数字のメモがかかれた父娘の写真などが入った財布を見つける。それは、ある政治家の汚職を暴くために命がけで証拠を盗み隠した男が、汚職追及の鍵となる品々を入れた財布だった。そのため、彼らは汚職政治家の手下である警察に、財布を渡せと脅されるが、殺されかけても死にかけても、それに従わない。そして、財布の持ち主が伝えようとしたメッセージを読み解くために、あらゆる危険を承知で闘うのだ。

ブラジルだけでなく、第三世界の多くの国々に、解消されない貧富の格差、企業/団体から汚職政治家への不正献金問題、金と権力にコントロールされている警察の腐敗といった問題は、常に存在している。それに憤慨し、解決を目指した闘いを挑む市民も、少なからずいる。日本に比べれば、ずっと多いだろう。が、その市民の声は問題を解消するだけの力を持ちきれずに、今に至っているというのが現実だ。最も貧しい人々は生きるのに必死で、社会全体の問題に取り組む余裕がないし、裕福な人々は自分たちの平和と幸福を維持するためには「問題」に本気で取り組まないのが賢明だと知っている。

そんな状況をふまえて映画の主人公たちの言動をみると、ふと考えさせられる。彼らはあそこまで命の危険を感じながらも、なぜ正義のために闘おうとしたのだろうか?と。もちろん事件には大金が絡んでおり、うまくすれば自分たちもそのおこぼれに預かれるかもしれないという目論みもあったかもしれない。が、それにしても、安全にお金を手に入れるのなら、財布を渡して警察が提示していた「謝礼」をもらったほうが、簡単だったに違いない。だのになぜ?

その答えはもしかすると、彼らのような貧困層の子ども・若者に社会が与えてきた人生の選択肢は何か?ということを考えることでみつかるのかもしれない、と思った。
これはあくまでも映画のお話、フィクションで、実際には恐らく大抵の人間が「安全にお金をもらう」ほうを選ぶだろうが、ここで敢えてそうではないケースを映画の題材にしたことの裏には、もしかすると、その「選択の理由」を考えてほしい、という製作者の思いがあったのかもしれない。

私の勝手な解釈だが、少年たちが命がけで「正しいことをする」ことを選択したのは、同じ命がけなら、そっちのほうがいいじゃないか、かっこいいぜ!と思ったからではないか。

ブラジルのスラムが危険極まりない場所であることは、映画「シティ・オブ・ゴッド」でも描かれている。ブラジルに限らず、多くの第三世界の国々で、スラムの子ども・若者たちは、理不尽な政治や犯罪によって、簡単に命を落とすことのある運命のもとに生まれていることを、よく知っている。つまり、いいことをしていても悪いことをしていても、わりと簡単に死が訪れるかもしれないという予感を持っているのだ。
ならば、正しいことをするほうが、価値がある。
そう考えたのではないだろうか?

これまでに出会った路上の子どもたち、スラムの子どもたち、その多くはこちらがヒヤヒヤするような危険なことを、平気でやる。車がガンガン走る通りを、平気で横切ったり、高い塀の上を踊りながら歩いたり。でも、そんな感覚がもし、社会を変える、すごいことのために活かせるなら、そっちに挑んでみようぜ!そんな思いが、この映画の主人公たちを動かしたのではないか。子どもたちの姿を思い出すと、そう思ってしまう。

ほんとうは、どこの国の子どももおとなもみんなが、「どうせいつか死ぬのなら、正しいことのために闘おう」という意識を持っていれば、世界はもっとずっとよくなるに違いない。