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2014年6月25日水曜日

平和と繁栄のための行動

沖縄での「慰霊の日」に、安部首相は「沖縄の人々に刻みこまれた心の傷はあまりにも深い。常に思いを致し続けなければならない」と述べたという。ケネディ大使は「日米はこれからも世界の平和と繁栄のためにともに努力する」といった発言をした。

国家の論理で始める戦争によって殺し殺され、傷つく人々の心を知る人が、平和憲法を歪め、集団的自衛権の行使、つまり 戦争に参加しようと言うとは!まったく信じられない。
「自衛」という言葉に日本人は毎度騙されてきたが、今度の話は自衛どころか、国民の殺人と戦死をいとわない、という話だ。戦争では、なぜか殺人が奨励され、殺人被害者になることが国家のための奉仕とされる。そんなことを、再び、合法的に、可能に、しようと、安倍政権はたくらむ。ついには公明党までが、権力の座を離れたくないがゆえに、妥協に走った。

「同盟国」米国は、その愚行、陰謀を歓迎し、ぜひにと後押しする。彼らの論理で言うところの「平和と繁栄」のための行動は、武力行使。平和を壊し人々の生きる意欲、希望を抱く力を奪う武力行使が、繁栄をもたらすはずもない。だのに、米国は常に、ラテンアメリカで、中東で、世界各地で「平和と繁栄のために」と戦争を引き起こしてきた。おかげでメキシコでは、麻薬マフィアまでがそれに習い?、力=武力で人々を黙らせ、「繁栄」している。そして市民は、麻薬戦争のなかで怯え嘆き苦しみ、未来を奪われている。

ほんとうに戦争の道を進んだ過去を悔い、世界の平和と繁栄を願うならば、日本政府よ、国民の目をごまかして「平和」憲法をねじまげることを放棄せよ。と、言いたい。
みなさん、声を大にして言いましょう。今月、来月は、集団的自衛権行使容認に反対するアクションが、各地で数々ある。(例えば若者たちも動いた。→ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140622/k10015415851000.html)







2014年6月16日月曜日

世界を知る、ということ

思えばインターネットなるものが、わが人生に登場したのは、大学を出て、ずっと後のことだった。以来、海外情報を入手することは、格段に簡単になった。が、その分、真実を自分の目で確かめよう、確かめたい、確かめねば、という意識と意欲が、人々の間で、本来は冒険家であるはずの若者の間でも格段に薄れたと感じる。

今日発売になったわが新刊本の主人公たち、400年前の慶長遣欧使節のサムライたちは、それこそインターネットはおろか、テレビもラジオも世界のニュースを掲載する新聞や雑誌もないなか、主君に命じられたというだけの理由で、7年間も見知らぬ世界を旅した。
大和の時代からつながりが深かった朝鮮半島くらいしか、日本列島の外の世界を知らない彼らにとって、それはまさに大冒険。命じられなければ、考えもしなかったことだろう。しかもその旅は、いつ意図せずして終わるとも知れない、危険なもの。飛行機に乗って、時々乱気流に脅されながら次の目的地のことを想像してドキドキしながら進む、というような、のんきな旅ではなく、いつ命を落としてもおかしくない、苦しく長い道のりだった。
使命を託されたサムライたちは途中、使節の仲間を何人も失いながら、旅を続ける。そんな武者修行のような世界旅を追っていて、考えさせられた。
この者たち、ただ使命感だけで旅しているわけではないのでは? と。

辛い、苦しい、でも殿のため… だけでは、人間滅入ってしまう。 しかも彼らの旅先はラテン世界。日々を楽しむことを大切に生きる人たちの世界だ。7年もそんな環境に置かれて、その精神を学ばないはずはない。いや、自分なりに身につけ、使命をまっとうするためのタフなメンタリティを身につけたのではないか? そう思う。

世界を知る、ということは、実はそういうことだろう。他人が言うこと、映像でみせたこと、小さな紙や画面、モニターの中の”世界”は、誰かがその意思で切り取ったもので、私たち自身が出会ったものではない。いくら3D映像になったとしても、それは”バーチャル”ではあっても、ホンモノではない。

じゃあ現場へ行きさえすれば、知ることができるのか? いやそれも、どう触れどう向き合うかによるだろう。自分の意思とは関係のない形での出会い、経験があってこそ、人は本当の意味で、その世界を知ることができると思う。
パック旅行のように、”予定通り”が大半の旅体験は、概して真実を覆い隠す。悩むような経験の中からこそ、世界は語りかけてくる。

400年前、すでに東南アジアやアメリカ大陸、ヨーロッパにまで、商売のために旅したり、住み着いたりしている日本人がいた。あるいはキリシタン禁止令を受け、信仰のために移住した人たちも。そんな人々とサムライたちは、それぞれの立場で異文化世界を理解し、吸収し、サバイバルしていた。

彼らの思いを想像しながら、便利になったこの世の中で、しかし、400年前の旅に負けない驚きと真実を追い求めて、世界を知る旅を続けたいものだ。
そして若い人たちには、ぜひ、本当の世界を知る努力をしてほしい。それがあってこそ、格差しか生まないマネーゲームではない、本当のグローバル化、平等な世界は実現する。


























2014年6月13日金曜日

「家族」と「自分の道」がもたらす力

昨日、3時間をこえるドキュメンタリー「遺言 原発さえなければ」をみた。
画面で、語り合い、嘆き、怒り、笑い、励まし合う福島の酪農家たちの言葉や姿を、そこに居合わせ見聞きしているような気分で追いながら、いろいろなことを考えた。映画をみた、というよりも、目の前の人々に様々な問いや問題を投げかけられているような感覚で、過ごした.

放射能との闘いを強いられ、戦場にいるようだと語る女性は、亡くなった父親が戦争体験を話そうとしても聞く耳をもたなかったことを悔やんでいた。みえない危険、心を埋め尽くす恐怖を前に、父親が戦争をどう感じ、どう乗り越えて生きて来たのか、知っておけば良かったと思ったのだろうか。

妻子を異国に避難させ、ひとり家と牛を守る日々に絶望し、「原発さえなければ」という遺言を壁に書き残して、自ら死を選んだ弟の心境を考える姉たちは、一様に、一人でいたことが良くなかったと話した。福島で追い詰められてゆく被災者への支援を最優先にせず、ころころと首相を変えることに明け暮れる国会、政治家への怒りを口にした。

チェルノブイリのあとでさえ原発を使い続けた(そして使い続ける)人類とは、なんと愚かなんだという、酪農家のため息混じりの叫びが、再稼動を論じる人々の耳には届かないのか?

食卓に何本も並んだ栄養ドリンクの瓶が、笑顔で闘う人々が抱える底なしの疲労を物語る。

重荷を背負い、絶望感に押しつぶされそうになりながらも、夫は何とかこれからも酪農家の人生を切り開いていくのだという強い意志と使命感からだろう、冷静にあらゆる現状分析をし手段を見つけては、次々と手を打つ。そんな夫を支える妻も、「あんたが大事だから」と寄り添い続ける。夫婦で晩酌をする姿に、改めて、人はどんなモノよりも愛する人の支えと信頼によって生かされているのだと感じる。

生活のために他県の農場での仕事を提供され、働きに行った若手の酪農家も、サラリーマン形式のそこでの仕事が自分の目指す酪農とはちがうと感じ、おもしろくないからね、といった感想を述べながら、そのうち別の選択肢を探りたいと話す。
そんな彼とほかの若手&ベテラン酪農家たちが一緒になって、のちに県内でも放射能に汚染されていない土地に、新しい農場を開く。原発事故で多くを失ったうえに、新たな借金まで抱えての出発だが、酪農家たちの顔は思いの外、輝いてみえる。

見終えて一番強く感じたのは、ひとは(血縁の有無に関係なく)家族がそばにいて、どんな状況であれ自分が信じる道をもち、それを進む意志を持ち続けられれば、幸せになれるのではないか、ということだ。その可能性を持てない、奪われている人間は、幸せを感じられない、不幸になる。これまで自分が取材してきた路上の子どもたちや先住民ゲリラ、フィリピン台風被災者たち・・・らも、その点においては同じだと思う。

映画の最後に東京での講演会で、酪農家たちは「行動」の必要性を語る。私たちは悲劇を知る、語る、書くだけではだめなのだ。脱原発へ向けて、行動しなければ。
それは、私たち人間が、未来においても、家族とともにそれぞれ自分らしい道を探して歩んで行ける環境を守るために、必要なことなのだから。




2014年6月11日水曜日

さよなら、マルコス副司令官。ようこそ、民主主義

メキシコの先住民組織「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」が5月24日に出した声明文に、驚いた。(その内容については、現代企画室の太田さんのブログを参照していただければと思う。http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?cat=13)
私個人が驚いたのは、2度インタビューをしたことのあるEZLNスポークスパースン・マルコス副司令官が「存在しなくなる」と宣言されたことだ。むろん、マルコスを演じてきた「彼」が消えるわけではない、死んでしまったわけでもない。が、私たちがマルコスとして追いかけていた存在は、もうEZLNにいなくなるという。

現在、EZLNはチアパス州にある27の叛乱自治地区で先住民による自治を確立し、独自の政府、学校、病院などを運営している。そこには25万人以上の先住民が暮らしているという。その政治は、「従いつつ、統治する」という言葉に象徴されるように、少数の議員のみが議論し多数決でことを決めて、政府・役人が人々にその結果を押し付けるのではなく、人々ができるかぎり直接議論に参加し、決めたことを、いわば実施担当となった者がまわりの声を尊重しながら実行するというスタイルをとる。言ってみれば、先住民社会の伝統に根ざす直接民主主義的な要素の強い統治方式だ。

この先住民主体の運動が、真に先住民主体になった今、非先住民(マルコスは都市から来た白人系の混血)の副司令官はめでたく無用となった、ということだろう。
メキシコは、彼らが20年前に「もうたくさんだ」と叫び、貧しい先住民農民への「死の宣告」だと糾弾した北米自由貿易協定と新自由主義のもと、彼らの予想通り、貧乏人にとって過酷な格差社会になってしまったが、それにNoと言い、立ち向かう形で生まれた世界の市民運動は、EZLNが示す真の民主主義への道を模索しはじめている。
これからは、チアパス、メキシコの市民のみならず、世界の市民が、マルコス抜きで彼ら先住民の言動を注視し、どこかへ追いやられてしまった「民主主義」を、その手につかみとらなければならないということだろう。

現に、スペインの市民運動15Mでは、スローガンだけでなく、実践レベルで、サパティスタのような民主主義を採用、実践している。本来は自己主張のかたまりのようなスペイン人が、自分の暮らす地域で開く住民議会においても、きちんと発言順や時間を守って、みんなの意見をちゃんときき、みんなで決める、ピラミッド式の指導部などは持たない、といったことを、真面目にやっている。また、世界的にはほとんどニュースにならなくなったメキシコのサパティスタ運動への関心も高い。
米・オキュパイ運動の人たちも、考え方は15Mと同じだ。

マルコスは去ったが、代わりに民主主義が、世界のあちらこちらにポツポツと、姿をあらわそうとしている・・・



2014年6月10日火曜日

子どもの貧困が未来に落とす影

日本の子どもの6人に1人が貧困家庭に育っている。長い間、いや今でも恐らく大半の日本人は、この事実に対して、本気で危機感を抱いていないのではないか。だとすれば、それはこの子どもたちにとってはもちろん、社会の未来にとって、大問題だ。


メキシコでは、人口の45%強が貧困状態にあるといわれるが、少し前にユニセフとConsejo Nacional de Evaluación Política de Desarrollo(開発の政治的評価審議会)が出した報告書によると、18歳未満の子どもにおいては、53%強が貧困状態にあるという。つまり、おとなよりも子どもたちのほうが、貧困にさらされている度合いが高いということになる。この結果に対して、ユニセフの代表者は、「(半数を超える子どもたちが貧困状態に陥っていると言うことは)子どもたちは自分の可能性を十分にのばすことができる環境になく、私たちが平和で包容力のあるメキシコを実現するために必要としている子どもに、育つことができない」とコメントしている。

メキシコではここ何年もの間、麻薬マフィアによる組織犯罪と抗争が続き、8年間で8万人以上が殺されたと推測されている。殺し合いにリクルートされているのは、貧困層の若者たち。75000人前後が麻薬組織で働いていると言われる。ユニセフ代表者の言葉が示す、未来の危機がそこにある。

そんなメチャクチャな状況にありながらも、メキシコには相変わらず儲かっている(日本の金持ちなんかめじゃないホンマもんの)大金持ちがおり、人口の1%にも満たないその人々が、国の富の半分を手にしている。彼らの活躍のおかげで(!)、今後の経済見通しはそれなりによい。そして日本企業は今、北米・南米への輸出拠点として、メキシコにどんどん自動車工場をたてている。それが未来を担うべき子どもたちの暮らしを改善してくれるか? いや過去の経験からすれば、期待できない。
政府と企業を中心とする社会の権力者たちが、99.9999...%の市民と貧困に未来を奪われている子どもたちの権利の回復こそが国の最重要課題だと考えないかぎり、「平和で包容力のあるメキシコ」は実現しない。

そして日本においても、経済大国といわれながらも、なぜこれほど貧困に苦しめられる子どもがいるのか。メキシコ同様に経済成長は必ずしも皆に豊かさをもたらすわけではなく、多くの子どもたちにとってはむしろ逆の働きをしているという事実を、真剣に考えなければならない。

子どもの貧困は、格差の問題と深く関わっている。そして格差社会は(どこでも麻薬戦争を引き起こすわけではないとしても)、人の心を乱し、危うく不寛容な(包容力のない)世界をつくりだす。

2014年6月9日月曜日

社会に憤り、変革に関与する

2011年5月15日に誕生したスペインの市民運動「15M」の参加者のことを、マスコミはこう名付けた。「怒れる者たち=Indignados」。この言葉は、昨年95歳で亡くなったフランスのレジスタンスの闘士、ステファン・エセルが2010年に出版した冊子「Indignaos(怒れ、憤れ)」からきている。世の中の矛盾、問題を認識し、その理不尽さに憤ることが大切だと、若者に呼びかけた彼の文章は、欧州の批判精神にあふれる若者・おとなたちの心を揺さぶり、権力者のやり方にNoを突きつけ、自ら問題の分析と解決に動く市民を生み出した。

エセルは、「Indignaos」の後、政治・社会参加を呼びかける「Comprometeos(決意し関与せよ、といった意味)」という冊子も、フランスの若い作家で社会活動家の青年との対談の形で出版している。
つまり私たちは、問題をきちんと見つめ(関心を持ち)、分析し、それに憤りを感じることが大切であるとともに、その憤りを力に「行動する」、「自ら関与する」ことが必要だと、エセルは訴えているのだ。
原発問題、憲法9条問題、秘密保護法問題、集団的自衛権問題・・・日本人はいままさに、エセルの言う事を真面目に実行しなければとんでもなくまずい時を生きている。
個人的には、もう24年も取り組んできた「ストリートチルドレン」と(日本をふくむ)子どもたちの問題も、その背景にある世界的な「格差」の問題も、これまでよりもずっと大勢の人が意識し、解決に向けて行動する状況を創りだす努力をしなければ、ほんとうにまずいと感じている.
情報発信と共に行動することへの呼びかけを、いままでの何倍もおこなう努力をしなければ。それができる「場」を、もっと獲得する努力をしなければ。
そう感じて、個人と所属NGOのfacebookだけでなく、このブログも始めることにした。
この場をかりて、いまの世界の有り様にindignarseし、状況を変えていくために行動するとcomprometerse したいと思う。