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2014年7月29日火曜日

経済的貧困が親・子どもを極度に追い詰める社会

子どもの最貧国・日本 −学力・心身・社会におよぶ諸影響」(山野良一・著/光文社新書 2008)のなかで、児童福祉司である著者・山野氏は、日本では長い間貧困問題が語られなかった、と書いている。厚生労働省1965年以降、長きに渡って貧困に関わる公的な測定そのものをやめていたのだ2008年にようやく「子どもの貧困問題」に光が当たり始めたが、まだまだ現実への対応はできていない、と山野氏は語る。ほかの先進国に比べ、非常に高い子どもの貧困率(昨年7月で過去最高の16.3%)を示している現在の日本。その「貧困」とは、貧困苦とは、単なる収入の少なさから来るものなのだろうか?

社会的に「あってはならない」とされる「貧困の大きさは、社会それ自体の経済的な豊かさとは関係がない。むしろ貧困を「再発見」していく「目」や「声」の大きさとかかわっている− 社会福祉学者・岩田正美氏はそう指摘しているという。この言葉から、私は「市民が、周囲で困っている人に気づき、互いにさりげなく支えあいながら、ともに生きていく環境を築けるかどうかに、社会の豊かさはかかっている」といったことを想う。
 
「第三世界」に目を向けても、子どもたちが家庭の経済的貧しさにより追い詰められているのは、やはり、人間関係や相互扶助意識、平等意識が失われている、損なわれている環境においてだからだ。特にメキシコなど、新自由主義的なグローバル化と経済成長至上主義が色濃い国、社会において、国の経済力は世界でも上位にありながら、「貧困に苦しむ」「貧困から生まれる問題に蝕まれた」家庭や子どもが、より貧乏な国々においてよりも多いことは、貧困問題の本質がひとの精神や意識、心の中にあることを示している。
 ストリートチルドレンが抱える問題、というと、ひとは一般に、家がない、食べ物がない、学校に行けない、といったことを思い浮かべるだろう。それと同様に、「子どもの貧困問題」というと、大半の日本人は、家庭の収入の低さを最も問題視するだろう。が、収入が低くても、周囲の理解や助けによって前向きに生活していける環境に暮らしていれば、ひとはそれを「深刻な問題」として「苦」にしたり、追い詰められたりすることはないものだ。そのことは、日本よりももっと経済的に貧しい国々のスラム住民の姿をみてもわかる。所得の低さを解消することは無論必要なことだが、それが達成されないからといって、貧困家庭の皆が皆、世間から阻害され、切り離され、子どもが虐待を受けるほど親が追い詰められたりするわけではない。多くの場合、そうした問題はその「世間」が抱える本質的な問題によって引き起こされている、と言うべきだろう。

先述の「子どもの最貧国・日本」では、日本との比較で、海外のこんな事例を紹介している。米国では1909年の貧困家庭の子どもへの対応についての会議で、子どもたちは家庭が貧困だというだけの理由で、家庭から引き離されるべきではないと結論づけている、というのだその背景には、「貧困階級の人々にとって一番大切なのは、人間関係であり集団のなかで生き抜くことであり、誰かを喜ばすことであって、中流階級の人々のように、何かを成し遂げたり、労働に勤しむことではないとされている」という当時の専門家の見解や、子どもは家庭で暮らせるのが一番なのだから、まずはその家庭が子どもの良き居場所となるような環境をつくる手助けをするのが第一だ、という考え方がある。だから、仮に貧困家庭の子どもに一時親と離れて暮らすことを選択させる場合でも、施設に入れるのではなく、里親家庭に預かってもらうことをまず考えるというわけだ。

そこには、子どもにとって何が一番大切なのか、に関する米国の考え方がはっきりと示されている。ある意味当たり前のことなのだが、それは「家族と生きられること」だ。ともに生きられないような家族になってしまった理由が、経済的貧困がもたらすストレスである場合、その最大の原因は、実は親個人ではなく、人々に「人並みのお金やモノを持っていないとダメだ」と思い込ませている世間、社会、世界なのだと、私は思う。

日本の貧しい母子家庭の抱える悩みの中には、「子どもが”学校でみんなと同じ流行のスニーカーをはいていないと、いろいろ言われる”と悩んでいる」といったものも、結構多いと聞く。靴が買えない、ではなく、みんなと同じ靴が買えない、と惨めな思いをする世の中なのだ。この子をみじめにさせ、親にストレスを与えているのは、流行のものを持つことがいいと思っている、皆がそうできるわけではないということに思いが至らない隣人たち、皆と同じでないといけないような世間の空気、お金やモノの豊かさで根本的な問題をごまかし、幸せ感を高めようとする社会・世界の誤った価値意識だ。

そんな意識のせいで、日本人は今、原発問題や憲法をめぐる平和問題といった、私たちの幸福や生存にもっと根本的に関わる重要問題までを脇に追いやって、経済成長や景気ばかりを気にし、優先している。

今のままでは、私たちはたとえ収入が増えたとしても、ほんとうに幸せな暮らしなど、到底手にできない。「経済に支配された格差社会においては、きょうの”勝ち組”もまた、明日に不安を抱き、意味のない心理的ストレスと無駄な経済的負担を、個人的にも社会的にも背負っている(「子どもの最貧国・日本」より)」からだ

経済的貧困が親や子どもを極度に追い詰める社会とは、そこに生きる大半の人が、経済成長論理に意識・無意識に支配され、それを抜きにした人間関係を築けなくなっている社会のことではないだろうか。同じようなもの、生活スタイルを持つ者同士だけが、対等に付き合える社会では、常に排除する者とされる者が存在する。いまはよくても、排除される側にならないよう、常に不安を抱えてもがく市民がいる。そんな排他的で非人間的な社会意識を変えることこそが、子どもたちの未来を真に明るいものにするために最も必要なことではないだろうか。

それに気づき始めた人たちが今、「もうひとつの経済」を提案し、いわゆる金銭収入=所得が安定的になくても、誰もが安心して暮らせる社会を築くための取り組みをしている。その話はまたの機会に。  (ストリートチルドレンを考える会Vuela No.234より)

  

2014年7月9日水曜日

「焼身自殺にピンとこない、じゅんびばっちりな自分に驚いた」

7年前に詩人の宮尾節子さんが書いた詩「明日戦争がはじまる」を転載して、こう(タイトルのように)ツイッターでつぶやいた人がいるという。先日触れた「新宿駅前で集団的自衛権行使容認に反対する演説をしていた男性が焼身自殺を図り重傷を負った」出来事についてのつぶやきだ。これをきっかけに、宮尾さんの詩がネット上でどんどんひろがったということだ。その詩とは−

明日戦争がはじまる

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

この詩は書かれた当時連日のように流れていた自殺や虐待死のニュースに心を痛めてつくられたものだという。「戦争」ということばは不穏な空気への不安から出てきたものだということだが、いまやそれが現実味を帯びている。

いまだにそう思っていない人も多いだろう。が、どんな社会においても、一部の人間を除く大半の人は、戦争が起きるまで、その気配が自分で感じられるようになるまで、戦争の姿をイメージできずに生きていたというのが、ほんとうだろう。

焼身自殺のニュースの際も、その事実を最小限伝える記事は各メディアで掲載されたが、「驚いた」という目撃者の反応以外に、詳しい事情やその場にいた人々の思いに触れる記事はみていない。その事実の裏にはほんとうに「じゅんびばっちりな日本人」が無数にいる気がしてならない。

話は変わるが、メキシコでは麻薬カルテルが生首を路上に放置したり、死体を歩道橋からつるしたりする事件が頻発し、そんな写真が1面を飾るタブロイド紙が毎日のように街角に並ぶ町もある。ネットに流れているおびただしい数のこの手の写真をみた日本人は、とんでもない国だと怖れおののく。が、ある意味これも、すでに戦争状態にある社会と、「明日戦争がはじまる」とうたわれる社会の、命の軽さのちょっとした差でしかないのかもしれない・・・ そのくらいの危機感が今、私たちには必要だ。



2014年7月5日土曜日

軍隊が貧しい若者の行き先となる社会

昨日、フォトジャーナリストの柴田大輔さんが7ヶ月滞在した、コロンビアのアワ民族の村の話をきいた。柴田さんは、この村からエクアドルへ避難している人たちと知り合ったことをきっかけに、ここを訪ねる決意をしたという。長引く内戦のために、村で安全に暮らして行けなくなった大勢の人たちが、コロンビアから隣国エクアドルへ避難している。その数、13万人とか。アワの人々もその一部だ。

内戦は、政府とコロンビア革命軍(FARC)および国民解放軍(ELN)の間で、約半世紀も続いてきた。現在、政府とFARCはキューバを舞台に和平交渉をしているが、内戦がこれまでに国民の暮らしに落とした影は、暗く深い。

柴田さんが滞在した村でも、村人がゲリラと疑われ民兵や政府軍に連れ去られたり、殺されたりしている。ゲリラに入り、生きて帰って来なかった若者もいる。

写真とともに話をききながら、怒りとやるせない思いを抱いたのは、どこの国のどんな戦争、紛争、内戦においても、血を流すのはほとんどいつも、貧困層の若者たちだという事実についてだ。ゲリラにシンパシーを感じるアワの村人たちが、悪魔、と非難する政府軍の兵士たちは大抵、二十歳前後の若者だという。政府軍兵士をうつした写真には、軍服さえ着ていなければ、ガールフレンドとラップやレゲトン、サルサを踊っていそうな、あどけない顔の青年たちがならぶ。

その光景はかつて、メキシコ・チアパス州でサパティスタ民族解放軍(EZLN)を殲滅するためにジャングルの農村地帯に送り込まれたメキシコ政府軍兵士と、同じだ。ラテンアメリカの多くの国で、最前線で戦う平の兵士は、故郷ではまともな収入を得る手段を持たない若者。生活費と給金を保証された軍隊に入るしか、生きて行く術を持たない青年たちだ。政府の圧政や格差社会を変えるために武器を取ったゲリラ兵士たちの多くと彼らは、同じ境遇に置かれている。ちょっとした環境、状況の差で、敵味方になっている。

メキシコの麻薬戦争においても、同じような現象が起きている。マフィアの親分連中はともかく、末端で殺し屋や運び屋をやるメンバーは大半が、貧困層の若者。彼らと対峙する政府軍や警察の前線にいる者たちも同様。

米軍で戦場へ行く兵士も、メキシコなどから不法入国で来た若者たちの志願兵であるケースが増えている。任務を果せば、市民権を得られるからだ。普通に青春をエンジョイしている若者たちは、戦場へなど行きたくないから、軍隊に志願したりはしない。だから、貧しく追いつめられた若者を「市民権」というエサでつるのだ。

軍隊が、貧しい若者たちの就職先やよりどころとなるような社会に、真の平和は訪れない。戦争をしたがっているようにしか見えない某国の首相にも、そのことをしっかりと認識してほしい。戦場に行く自衛隊員が足りなくなったら、彼はどうするつもりなのか?就職難の若者たちに何か美味しいエサを与えて、自衛隊に入ってもらうのか?
そんな社会に平和はない。







2014年7月1日火曜日

「大丈夫です」と言わないで

集団的自衛権の行使容認に反対する国民の声は、日に日に高まっている。が、安倍政権は聞く耳を持たない。公明党も支持者の声を敢えて無視する選択をした。これが民主主義国家なのか? 3年前に経済危機と社会福祉・教育・医療保険を犠牲にした緊縮政策にあえぎ、怒るスペインの若者たちが叫んだ「もういい加減、新の民主主義を!」を、私たちも叫びたいものだ。

大やけどで即入院したため、どんな人なのかもわからないが、集団的自衛権行使に反対して新宿で焼身自殺をはかる人まででた。彼の真意はどうあれ、それほど深刻な状況に私たちは置かれているということは、確かだ。

安倍さんは今日もまた、心配ご無用、これが即戦争に巻き込まれるということを意味することはない、と、まあ平気でウソを語っているが、それで納得、大丈夫、と思った人がいたなら、ぜひ新聞やネット、あらゆるところで語られている「集団的自衛権の行使容認」のほんとうの中身をチェックしてほしい。全然大丈夫じゃないのだから。

数日前、官邸前での抗議行動で、ある女性が訴えていた。若い人たちにも、もっと関心を持って欲しい、と。彼女は渋谷の街頭で、集団的自衛権の行使容認に反対しようと呼びかけ、チラシを配ったりしているそうだが、その際、若い人に近づくと、何かする前にほとんどいつも「あ、大丈夫です」と逃げられると言う。「煩わしい事を避ける感じで」。

街頭で演説をしたり、ビラを配ったりする人々の中には、確かに怪しい、煩わしい人もいるし、避けたいこともある。が、何の話をしているのか、それはきちんと認識してから、避けるかどうか、考えるようにするべきではないか。若者だけではない。中高年でもそうだ。自分が生きている国の政治・社会問題を、他人事のようにみている人間が多すぎてはまずい。この「集団的自衛権行使容認に反対」は、私たち1人ひとりがちゃんと認識して考えるべき問題だ。避けて放っておいて、「大丈夫」ではない。

日本人はもともと曖昧表現の好きな国民ではあるが、この社会の未来に関わることを、根拠の無い「大丈夫」でスルーしていては、ほかの国の人々にこう言われるだろう、「あなた、大丈夫ですか?」と。