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2017年12月25日月曜日

「教育」は何のため

朝日新聞の記事によると、自民党の教育再生実行本部が「教育のあり方」を洗い直しているという。その目的は、「教育の出口として、経済界が求める社会人像も議論し、具体的な提言を法改正につなげていく」ことだそうだ。恐ろしい。教育は、経済界が求める人間をつくる道具ということか。

そもそも世界中で「格差」が、細かい分断を積み重ねつつ拡大しているのは、教育政策をも含め、世界の流れが、政治が、「経済」を基準にデザインされ、つくられ、動かされている結果だと感じる。全体の底上げとか、社会に役立つ人間を育てるとか、雇用機会が増えるとか言うと、きこえはいいが、要は「金融・多国籍企業を中心に動く世界」を「維持、発展」させるためのニーズに合わせて、人間は育てられ、訓練され、選別されて、それぞれに「相応の機会」が与えられる、ということではないか。その裏には常に、格差を肯定し、その前提に立って各個人が努力すべきだという経済論理がある。流れに乗れない人間、乗せるにはコストのかかる人間は、はじめから政治・経済世界の視野に入っておらず、切り捨てられていく。私が出会った中米のギャング少年たちも、そうやって「切り捨てられた」人間だ。

去る5月、スペインで、自閉症をはじめとするいわゆる障がいをもつ子どもたちと、持たない子たちが、みんな同じ教室で学ぶ公立小学校を訪問した。ひとつの教室のなかで、様々な子どもが、5、6人のグループになって学んでいる。先生に、「ここまでいろいろな子どもがいると、大変じゃないですが?」と尋ねると、「いえ。むしろこのほうが、子どもたちは人間として成長します。学校は、子どもがたくさんの知識を詰め込むためにあるのではなく、一人では完璧でなくても、みんなで学び合い、支え合えば、幸せに暮らしていけることを体験してもらう場なので、このほうがいいんです」という答えがかえってきた。


教育現場、子どもが育つ環境にそうした意識が欠けている限り、日本社会は、世界はますます不平等で不幸なものになっていく。