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2016年3月8日火曜日

「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児と現代日本の子どもたち

先日、NGO「ストリートチルドレンを考える会 (CFN)」の仲間が、昨年11月末の読売新聞に掲載された、「戦後70年 伝える」というシリーズ記事のひとつのコピーをくれた。そこに書かれていたのは、私が「ストリートチルドレン」の取材を始めるきっかけとなり、その後、共にCFNを創った故・相川民蔵さんが最初に「ストリートチルドレンのことを知りたい」とおっしゃった理由と重なる話だった。

1945年8月を都市で迎えた人の多くは、相川さんやこの記事の主人公、児童養護施設「愛児の家」の石綿裕さん(83)と同じ光景を目にしたことがあるかも知れない。戦争で家も親も失い、飢えに苦しみながら、駅の地下道でボロをまとい、垢だらけになって、悪臭を漂わせながら生きる子どもたちの姿を。記事は、そんな子どもたちを焼け残った自宅へ連れて行き、「自分の子」として育てた裕さんの母親と、共に暮らしてきた裕さんの話を紹介している。そこで語られる戦災孤児の姿は、私が初めてメキシコシティの路上で暮らす子どもたちと向かい合った時にみた姿と、あまりによく似ていた。

着たきり雀で物乞いをしたり、残飯をあさったり、時に盗みをしたりして生きのびる子どもたち。一緒に電車に乗ったり、レストランに入ろうとしたりすると、周囲がさーっと離れていったり、警備員が追い出しにきたり。「(そういう時に人々は、)汚れたものを見るような目を向けて。子どもたちは飢えだけでなく、この視線にも耐えてきた」と語る裕さん。メキシコシティで出会った子どもたちも、そうだった。

「子どもに必要なものは、あたたかい食事、そして一緒に食卓を囲む誰か」と、裕さん。屋台でタコスを食べたり、映画を観に行ったりしながら話をする時のストリート少年も、ふだん仲間と路上でシンナー類を吸ってラリっている時とは打って変わって、饒舌になった。笑顔が増えた。

「愛児の家」には現在、親はいるが一緒には暮らせなくなった子どもたちが生活している。「虐待を受けた子もいれば、離婚時に自分を押し付け合う両親の姿を見てきた子もいます。自分の存在を否定されてここに来るのです。本当の孤児より気の毒かもしれません」
。そう話す裕さんの言葉が、家を飛び出して路上に来ざるを得なかった子どもたちとも重なる。

記者のコメントの中には、現代の日本に生きる子どもたちが置かれた、厳しい現実が示されている。曰く、「飽食の時代といわれる今、貧困や虐待が理由で親と離れて暮らす子どもは、3万9000人。終戦直後3万5000人いたとされる浮浪児の数を超えた」。

私たちのNGOには今でもたまに、中高生や大学生が、「ストリートチルドレンについて調べているのですが」と、質問に来ることがある。そんな時、自分たち、日本の子どもたちのことも頭において、調べたり、考えたりして欲しいと話す。私の中では、相川さんにきいた「戦災孤児」の姿と、様々な国で出会った路上の子どもたち、日本の養護施設にいる子どもたち、一見ふつうに生活しているが、自分の存在を肯定された経験が薄いために、ささいなことから大きな問題を起こしたり、人生に希望を持てなくなってしまったりする子ども・若者たちが、同じ世界の住人に思えてならないからだ。

おとながもたらした社会のゆがみ、世界の矛盾が、子どもたちを追い詰める。その構図はいつの時代もどの場所においても、変わらない。おとなはそれを自覚して社会を見直し築き直す、子ども・若者もそれに気づいたら、抗議の声を上げる。そんなところから、社会を変えて行かなければならない。