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2017年12月25日月曜日

「教育」は何のため

朝日新聞の記事によると、自民党の教育再生実行本部が「教育のあり方」を洗い直しているという。その目的は、「教育の出口として、経済界が求める社会人像も議論し、具体的な提言を法改正につなげていく」ことだそうだ。恐ろしい。教育は、経済界が求める人間をつくる道具ということか。

そもそも世界中で「格差」が、細かい分断を積み重ねつつ拡大しているのは、教育政策をも含め、世界の流れが、政治が、「経済」を基準にデザインされ、つくられ、動かされている結果だと感じる。全体の底上げとか、社会に役立つ人間を育てるとか、雇用機会が増えるとか言うと、きこえはいいが、要は「金融・多国籍企業を中心に動く世界」を「維持、発展」させるためのニーズに合わせて、人間は育てられ、訓練され、選別されて、それぞれに「相応の機会」が与えられる、ということではないか。その裏には常に、格差を肯定し、その前提に立って各個人が努力すべきだという経済論理がある。流れに乗れない人間、乗せるにはコストのかかる人間は、はじめから政治・経済世界の視野に入っておらず、切り捨てられていく。私が出会った中米のギャング少年たちも、そうやって「切り捨てられた」人間だ。

去る5月、スペインで、自閉症をはじめとするいわゆる障がいをもつ子どもたちと、持たない子たちが、みんな同じ教室で学ぶ公立小学校を訪問した。ひとつの教室のなかで、様々な子どもが、5、6人のグループになって学んでいる。先生に、「ここまでいろいろな子どもがいると、大変じゃないですが?」と尋ねると、「いえ。むしろこのほうが、子どもたちは人間として成長します。学校は、子どもがたくさんの知識を詰め込むためにあるのではなく、一人では完璧でなくても、みんなで学び合い、支え合えば、幸せに暮らしていけることを体験してもらう場なので、このほうがいいんです」という答えがかえってきた。


教育現場、子どもが育つ環境にそうした意識が欠けている限り、日本社会は、世界はますます不平等で不幸なものになっていく。

2017年11月7日火曜日

表現・言論の自由の重みを知る

地中海の島国マルタで、「パナマ文書」をもとに政府の疑惑を追及する記事をブログに書いていたジャーナリストのダフネ・カルアナガリチアさん(53)は、さる10月16日、車に爆弾が仕掛けられ殺害された。彼女は、政府閣僚や首相の妻が中米パナマに会社を置き、マルタにエネルギー輸出を図るアゼルバイジャンの大統領の家族の会社から大金を受け取ったことを暴いた。追い詰められた首相は今年6月、前倒し総選挙に踏み切り(どこかできいたような)、何とか過半数を確保して、再出発した。

この事件、9月から10月にかけて取材してきたメキシコのジャーナリストの状況に似ていることに、背筋が寒くなった。権力の悪事を暴こうとするジャーナリストは、ペンを折られる。だが、それ以上に私の関心をひいたのは、彼女が殺された後の市民の反応だ。

人口、わずか42万人の国で、約1万人の市民が首都周辺で2度、集会を開き、彼女の殺害と政府の対応に抗議する姿勢を示した。先月29日の集会では、老若男女、あらゆる参加者が彼女がブログに残した言葉、「我々は黙らない」の書かれたTシャツを着ていたという。治安が比較的よく、記者殺害事件など起きたことのなかった国で発生した、表現の自由を侵害する犯罪行為に、人々は大きな怒りを感じている。

この17年間に100人を超えるジャーナリストが殺害されているメキシコでも、勇気あるジャーナリストと彼らを支持する市民は、自分たちがよく知るジャーナリストが権力によって理不尽に抹殺されると、通りに出て声を上げる。社会から表現・言論の自由が奪われれば、権力によるファシズム支配が完成すると承知しているからだ。

この日本で今、もしも権力の絡んだ理不尽な現実の裏のからくりを暴こうとしていたジャーナリストが殺されたとしたら、市民はどう動くのだろう。何十万人もの抗議集会が開かれるだろうか・・・

2017年10月30日月曜日

11月のイベント「メキシコ麻薬戦争から見える世界」

メキシコにおける麻薬カルテルの抗争、彼らとつるむ政治家・企業家・公務員の汚職は、大勢の市民を巻き込んで続いている。今年2017年は、これまでの「麻薬戦争」で最悪といわれた2011年をしのぐ勢いで、死者・失踪者を生み出している。
この現実は、メキシコの「特殊事情」なのか、それとも日本や世界と関係のあることなのか。あるとすれば、どんな?
11月17日のイベントでは、私の最新刊『マフィア国家』の発刊を後押ししてくださった岩波書店の月刊誌『世界』の編集長・清宮美稚子さんと、私の担当編集者である熊谷伸一郎さんとともに、この問題について、みなさんと考えます。
ぜひご参加ください!

スライドトーク
 岩波『世界』x『マフィア国家』 
 メキシコ麻薬戦争から見える世界

『世界』での連載をベースに、今年7月、『マフィア国家 メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々』(岩波書店)を出したジャーナリストの工藤律子が、岩波『世界』編集部(編集長・清宮美稚子&担当編集者・熊谷伸一郎)と、メキシコ麻薬戦争を通して見えてくる世界について、取材写真(by フォトジャーナリスト篠田有史)を使いながら、語ります。
※スペシャルゲストの飛び入りもある?!
日時  11月17日(金) 7pm〜10pm (6:45pm開場)
場所  高円寺Grain (杉並区高円寺北3-22-4U.Kビル2階)
      *JR高円寺駅北口より徒歩1-2分
      TEL&FAX:03-6383-0440 
      http://grain-kouenji.jp/access/
参加費 1000円
   (手作りラテンディナー&ワイン&ソフトドリンク付)← 料理は私が腕によりをかけて準備!
     *収益の一部は、メキシコでの失踪被害者支援活動
     に寄付。 
問合せ&申し込みは、今のところ下記へお願いします。
    E-mail: event@iwanami.co.jp
※飲食準備の都合上、できるかぎり事前にお申し込みください。
*スペースの関係上、約40人で締め切らせていただきます。      

2017年10月13日金曜日

政府・企業の怠慢、若者ギャングの底力

メキシコは、9月に2度の地震に見舞われた。一度目の時には、ちょうど「ストリートチルドレンを考える会」のスタディツアーを率いて、現地のホテルに滞在していた。夜中の12時まえに突然、ゆっくりと床が左右に揺れ始め、欠陥建築が多い国の地震に、さすがの私も一瞬緊張した。が、幸い、メキシコシティでは大きな被害はなかった。そして19日、私が篠田とキューバ取材に出た翌日、ちょうど32年前に首都を大地震が襲ったのと同じ日に、2度目が起きた。

友人たちの証言から想像すると、今度は恐らく日本で言うところの震度5前後の揺れだったのではないかと思われる。もともと湖の上につくられた街であるメキシコシティにおいては、特に地盤の悪い地域に立つ古い建物や、建築基準を守っていなかった住宅、アパートなどが、複数倒壊した。日本ならば、恐らく建物が倒れることはなかっただろう。自然災害の裏に、人的災害が見えた。

メディアは、子どもの犠牲を出した私立学校や、まだ建てられて1年も経たないマンションの倒壊などが、許可なく建てられた違法建造物や手抜き工事などに因ると書いた。その証拠を探るために、建築許可書の提示を求める記者たちに、役所は「証拠隠滅」で応じた。建設業界と役人の癒着が見え隠れする。

麻薬戦争を通してすでに、この国の人権無視の実態は暴かれているが、大地震は改めて問題の根深さを物語った。

その一方で、社会が「怠慢で何もしない」と批判的に見ていた若者たちが、誰に指示されるでもなく、率先して被災者の救出作業に向かい、救援物資を集め、各国からの救助隊や政府の支援がなかった遠隔地にまで出向いて、絶望の縁にいる人々を支えている。そのなかには、ふだんスラムでケンカや麻薬売買などに関わっているギャング青年たちもいた。

「本当は皆、人のためになることをしたいんだよ。そんな連中が仲間と、手元にあったシャベルなんかを手に、次々と倒壊現場へ駆けつけた。そして、瓦礫の下から人を助けたんだ」。
メキシコシティを中心にかつては700人の子分を率いていたギャングリーダーは、仲間の奮闘ぶりをそう語った。メキシコ人としてやるべきことをやらねば、と、若者たちは奮起した。

「この国の若者は本来、責任感が強く、互いに支え合うべきだという意識を強く持っている。それを生かせる環境を、社会は与えてこなかった。そんな場が現れたとき、彼らはしぜんに自分たちの果すべき役割を担ったのさ」
救援物資を若者たちとともに遠隔地に運び、配給するのと同時に、復旧作業を手伝うプロジェクトを動かすカルロス・クルスは、彼がつくったNGOの事務所で物資を仕分けし、トレーラーに積み込む学生やギャングの姿を、頼もしそうに見つめていた。彼も若い頃は、ギャング団のリーダーだった。今は、次世代の子ども・若者たちに、非暴力と平等、社会参加を促す活動をする。救援物資を運ぶトレーラーも、ボランティアの若者たちが乗る大型バスも、彼が企業と交渉して無料で手に入れた。

政府や企業の怠慢と、ギャングをはじめとする若者たちや元ギャングの底力が、メキシコが抱える問題と希望、両方を映し出していた。

2017年6月4日日曜日

著者(私)自らが語る 『マラス』

※ラテンアメリカ・カリブ研究学会誌に掲載された記事を転載させていただきます。

『マラス 暴力に支配される少年たち』
(集英社 2016.11 工藤律子/著 篠田有史/写真)

 「マラス」という単語でネット検索をかけると現れる、スキンヘッドや顔面までタトゥーに覆われた、恐ろしげなギャングの若者たち。ネットに流れるそんなイメージと、私が実際に会い、話をしたギャング青年たちは、ある意味、まったく違っていたー
 ラテンアメリカの研究者ならば、恐らく誰もが、マラスという言葉とそれが指す集団の存在は知っているだろう。が、日本の一般メディアはその問題をほとんど報道しないうえ、各国のメディアが映し出す彼らの姿も、マラスのメンバーや彼らがいる地域がとんでもなく「特殊」であるかのようなイメージばかりを作り出している。そうやって、問題の本質や彼らが私たちの世界の一員であるという事実を、かき消している。
 ホンジュラスにはなぜ3万人を超えるギャングがいるのか、ラテンアメリカはなぜ世界一貧富の格差の激しい場所になっているのか。周囲にそう問いかければ、「そんなこと、私たちには直接の関係がない」という反応が返ってきそうな社会を前に、私はこの本を通して伝えたい。ラテンアメリカの子ども・若者たちの現実と、日本をはじめとする他の国々の同世代の現実は、深く結びついており、私たちはそこに浮かび上がる世界的な問題に、ともに取り組まねばならないということを。
 私にとって、学生時代に留学で出会ったメキシコをはじめとするラテンアメリカの国々は、慣れ親しんだ人々、「家族」や「友人」、「仲間」が暮らす場所だ。だから当然、その社会情勢やそこで深刻化している問題には、いつも特別な関心を抱いている。そんななか、最近感じるのは、日本で私の周りにいる知人たちが、この国の子どもや若者が抱える問題として憂えていることが、メキシコや中米で取材している問題と、あまりにも似ている、同じだということだ。
「自分に自信がない」、「居場所がない」、「希望がみえない」、「とりあえずお金がないとだめだと思う」、「おとなは信用できない」etc.
 日本で今、「不登校」など様々な形で「普通」の道すじから「外れた」とされる子どもや若者と接するおとなたちは、目の前にいる彼らの不安を、そんな言葉で表現する。それはまさに、家庭での虐待を逃れて路上にきた「ストリートチルドレン」と呼ばれる子どもたちや、マラスに入る少年たちの思いと重なる。
 『マラス』には、三人、ホンジュラスの元ギャングの若者が登場する。
 まず一人は、マラスがまだ中米に広がっていない時代に、大物ギャングとして名を馳せたアンジェロ。本の表紙を飾っている男だ。彼は、首都テグシガルパのスラムで育ち、そこにいくつもあった若者ギャング団に憧れ、力=暴力を用いてその頂点に立ち、何でも思い通りにできる金と権力を手にする。が、自動車強盗として襲った車の主が、銃を突きつけられてなお、静かに言い放った一言が、彼の心を揺さぶる。
「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。
 アンジェロは、大金を叩いてボディガードを雇い、とことん武装していても、死への恐怖を消し去ることができずにいた。なのに、その男は丸腰で、死ぬことなど怖くない、と言ったのだ。そのことが伏線となり、彼はのちに刑務所の中で「変身」する。そして罪を犯した者たちを、まっとうな人生へ導くことをライフワークとするようになる。
 マラス世代のネリは、母親と自分たち子どもに暴力を振るう父親のいる家を離れたい一心で、地域の若者たちがこぞって参加していたギャング団、マラスの一つに入る。
「ギャングになってからは、兄貴分が食事や服、何でも与えてくれた。ストリートが家で、ギャング団が家族だったんだ。(中略)ほとんどの時間を仲間とすごした。ほかに居場所がみつからなかった」
 彼は、自分の心の癒しと問題解決をマラスに見出そうとするが、それは無理な話だった。そして敵に殺されそうになり、命からがら逃げ出した後に訪れた教会で、こう気づく。
「僕には愛が欠けていた」
 その後、マラスを抜け、教会でボランティア活動をしながら、まじめに働き、ギャング少年たちに、ラップミュージックを通して、暴力を離れて新たな人生を歩むよう呼びかけている。
 父親を殺したギャングに復讐しようと、敵対するマラスに入った少年、アンドレスは、「人をひとり殺せ」という命令にどうしても従えず、マラスを抜ける決意をする。そのために故郷を離れ、メキシコまで旅を続ける。二〇一三年頃から急増した米国への不法入国を試みる中米出身の子どもたち同様に、バスでグアテマラを横切り、川を渡ってメキシコに入り、米国へ向かう貨物列車の屋根に乗り・・・ 冒険の末、メキシコ移民局にたどり着く。運の良いことに、親切な警官の助言や難民支援委員会の配慮のおかげで難民認定を受けることができ、メキシコで合法的に暮らせるようになる。しかも、現地NGOの支援で職業訓練を受け、一流ホテルへの就職も果たした。
「幼馴染はほとんど死んでしまった・・・」
 メキシコで夢を持って生きることを知った少年は、過去を振り返り、こう語る。
「ギャングになれば、恐れられるようになる。それを、リスペクトされている、というふうに勘違いするんだ。人々が抱く恐怖心が、ギャングになった少年たちをいい気分にさせる。多くの少年は、リスペクトされる存在になりたくて、ギャングになるんだと思う」
 彼らのような若者たちに、別の生き方を見出してもらおうと奮闘するおとなたちには、信仰を糧に活動する者、NGOとして様々なプロジェクトを展開する者など、いろいろな人がいる。そして誰もが、大きなジレンマを抱え、時に無力感に襲われながらも、祖国の未来のために、暴力の闇に翻弄される子どもや若者と向き合い続けている。それは、おとなが関わり続けることで、信頼関係を築き、対話を繰り返していけば、子どもたちに変わるチャンスをつかんでもらえると、確信しているからだ。
 そんな確信を、より多くの子どもたちにとっての現実とするには、ギャングが支配する地域のおとなたちだけが、孤軍奮闘していてはだめだ。そう強く感じる。私たち皆が、それぞれの場で、自分が取り組んでいる課題と世界のつながりを考え、未来のために今、何をすべきかを、世界の人たちとともに真剣に考えなければ。
 一九八四年、二〇歳で出会ったラテンアメリカには、貧乏暮らしをしながらも、皆でそこから抜け出すぞ、という活気があった。人間同士のつながりが多くの問題を解決し、保険も蓄えもなくても、なぜか未来に希望を抱くことのできる世界が、そこには存在した。バブルへと突き進む日本社会で私が感じていた不安や違和感から解放してくれる、人間パワーと連帯感があった。それが徐々に薄れ、失われていき、マラスのような若者たちを生み出した原因は、ラテンアメリカだけにあるのではない。
 歪んだグローバル化がもたらした「現在」を様々な角度から分析し、新たな道筋を描くのは、私たち地球市民、全員の責務だろう。その責務を果たすための気づきの材料として、この本が役立つことを切に望む。



2017年3月30日木曜日

墓地に暮らす少女の挑戦

 シャイで無口だった少女は、強くたくましい女性になった。38日に「ストリートチルドレンを考える会」のスタディツアー「フィリピン・ストリートチルドレンと出会う旅2017」の参加者を見送った後、私とパートナーの篠田は、NHKのディレクターと共に、墓地に暮らすジュリアン(20)の取材を始めた。43日にNHKの「ニュース シブ5時」という夕方のニュース番組で、彼女を紹介する15分ほどの特集を放送することになったからだ。(BSの10PM「国際報道」でも翌週当たり放送予定。)およそ一週間、ジュリアンやその家族に迷惑にならないように、小さなカメラで篠田とディレクターが撮影し、私はいつも通り、彼らと接する。
 シャイなジュリアンは、撮影されることをあまり歓迎しないのではないか。約8ヶ月ぶりに会いに行く前は、そんな心配をしていた。が、彼女はむしろ、カメラの前でも堂々と話し、立ち回り、ホテル&レストラン業を学ぶ女性らしい振る舞いをした。8年前に初めて出会った頃、何を聞いても、自信なさそうにただニッコリして眉を上げるだけだった少女は、下手でも臆せずに英語で話そうとする、積極的な大人になっていた。
 昨年は、スタディツアーが参加者不足で成立しなかったため、7月に私と篠田だけで会いに来た。当時はジュリアンと一つ違いの兄ジュネルが、おそらく薬物を使い出したせいで、おかしな言動を繰り返しており、家族全員が不安とストレスにつぶされそうになっていた。ジュリアンは、「ストリートチルドレンを考える会」の会員12人で出している奨学金で大学に通っていたが、学費と通学費以外の、例えば料理実習の食材などは、自分で用意しなければならないため、授業のない時間帯はほとんどファストフード店でのアルバイトに使い、心身ともにかなり疲れていた。稼いだお金の半分は、家族の生活費として母親のフロリサさんに渡すため、労働時間を増やし、勉強と睡眠の時間が削られていた。そんなとき、兄が家族のものを盗んだり、意味不明なことを口走ったりするようになり、彼女は完全に参っていた。
「この家にいたくない。そう思っていました」
 当時のことを、そう振り返る。
 バイト先でも、いじめなのか、バイト仲間が自分の失敗を彼女のせいにし、店長に告げ口をしたため、昨年末で仕事を首になった。
「でも、もうすぐ学校では卒業を目指しての実地訓練、On the Job Trainingが始まるので、これを機会にバイトはやめて、勉強に専念して、いい成績をとりたいと思いました」
 ジュリアンは、ピンチをチャンスと捉えて、前へ進むことにする。そして、学校での成績を少しずつ上げていった。
 彼女の頑張りをみながら、ジュネルの問題を解決する方法を思い悩んでいたフロリサさんは、今年1月、一つの決断をする。彼を警察に連れて行くことにしたのだ。ドゥテルテ大統領による麻薬戦争で、薬物常用者が大勢殺されているなか、どこかそれに怯えているようにみえたジュネルが、殺されたり、家族ではなく他人のものを盗んだりしないうちに、刑務所に隔離しようと考えたのだ。私たちにとっては驚くような判断だが、母親にはそれなりの考えと決意があった。
「ジュリアンや家族が安心して暮らせること、そしてジュネルが薬物などと関わらない場所にいることが、大切だと思ったんです」
 結果的に、この判断は家族の生活を良い方向へと導いたようだ。
 ジュリアンは、取材中、就職に向けてのセミナーや試験に追われながら、学生生活を楽しんでいた。日本円で年間15万円前後という高額な授業料をとる大学に通う同級生は、毎月一万円くらいの小遣いを使うという、裕福な家庭の若者たち。だが、彼女はマイペースで、彼らとうまく付き合っている。みんなでマクドナルドに入っても、一番安い飲み物一杯だけ買って会話を楽しみ、ショッピングに誘われても、それとなく断る。
「墓地に暮らしていることは、話してません。聞かれないから。聞かれれば言うんですけど。彼らは、貧困とかそんなことには興味がないんだと思う」
 自分の同級生のような富裕層の人たちは、貧困層の現実になど関心がない。彼女はそう考えている。
「もしいい給料がもらえるようになって、ショッピングを楽しんだり、きれいなレストランで食事したりするようなお金が手に入ったら、そうしたいと思う?」
 そう尋ねると、ニッコリして、
「いいえ。私はお金が手に入ったら、家族と墓地を出て、ささやかな部屋を借りて暮らしたいだけです。そして、私のような子どもたちの力になりたい」
と、答えた。
 ジュリアン一人に頼っていてはいけない。今回、私たちのNGOが支援している現地NGOのひとつ、「セラズ・センター・フォー・ガールズ」を運営するカトリックのシスターで、心理カウンセラーでもあるアルマさんに悩みを聞いてもらったフロリサさんも、そう考える元気が出てきた。ジュネルについて思い悩んでいたことを吐き出し、シスターたちが、ジュネルへの今後の対応を含めて、家族を応援すると約束してくれたからだ。安心した彼女はさっそく、シスターが勧める「Housekeeping(ホテルやレストラン、邸宅などでの清掃やベッドメーキング、カラス磨きなどの仕事をするスキル)」の訓練コースに参加することにする。教会が無料で提供しており、修了証書をもらえば、仕事を得るチャンスが増えるからだ。就職前のOn the Job Trainingでも、バイト代がもらえる。
「ふたりで力を合わせて、墓地を脱出します」
 昨年の暗い表情とは打って変わって、生き生きとした笑顔で、フロリサさんが宣言する。
「いつ頃、墓地を離れられると思いますか?」と聞くと、「そうですね。年明け頃でしょうか?」。
 同じ質問をジュリアンにしたら、こちらは強気な返事をくれる。
「7月くらいかしら?」
 すると母親が、「ええ~、そんなに早く!?」と驚く。「でも5月末に大学を卒業するのと同時に、いい就職先が決まれば、可能よね」と私が言うと、ジュリアンはいたずらっぽい笑みを浮かべて、こう言った。
Why not!(行けるでしょ!)」

★4月3日(月)NHK「ニュース シブ5時」にて,ジュリアンを紹介するレポートを放送します。


2017年2月2日木曜日

「まなぶ喜び」を知る権利

いつの日からか、日本では、多くの子どもたちにとって、「まなぶ」ことがあまり楽しいものではなくなった。経済の競争原理が、学校教育にも持ち込まれたせいだろう。合理的に知識(データ?)を詰め込み、試験問題を正確に解く力が重視され、学ぶことの楽しさや喜びは、いつのまにか捨て去られたような感じすらある。そうなると、その学校制度に適応できない子は、よほど仲良しの友人でもいない限り、学校はつまらない場所になり、まなぶことは面倒で苦痛なものとしか映らない。適応できた子も、いい学校に入るといった目的を達してしまえば、頭につめこんだことを忘れてしまったり、詰め込んだ知識を人生で活かして楽しむことができない。そんな学びは、「人間のまなび」ではない。

昨日、試写でみた映画「まなぶ 通信制中学60年の空白を越えて」は、「人間のまなび」とは何かを、改めて考えさせるものだ。人間には、まなぶことの楽しさ、喜びを知る「権利」がある、と思う。それを持つか持たないかで、人生の豊かさが大きく変わるからだ。むろん、社会に貢献できる可能性も、変わる。

映画では、戦後、学校教育が新たな6・3制で始まった際、旧制度時代に中学教育を受けられないままだった人たちのためにつくられた「中学校通信教育課程」で学ぶ人たちを追う。始まった頃は当然若い人が多かったが、今回映画に出てくる生徒は皆、60代以上の高齢者だ。この制度は、あくまでも旧学校制度から新たな学校制度に移行した際に、新しい中学教育からこぼれ落ちた人たちのためであるため、その「世代」にしか適用されない。現在の子どもや若者、若い中高年は、対象外だ。おまけに、この学校自体が、日本中に、この映画の舞台である千代田区立神田一橋中学校、一校しかない(5科目限定のものが、大阪・天王寺に一校)。

そんな学校で、子どもの頃は様々な理由で中学に通うことができなかった60、70代の男女が、まなんでいる。苦労はするが、知らなかったことに気づき、気づきを楽しみ、知る喜びを感じ、まなんだことが自分の知っていることともつながって、人生が豊かになっていく。通信制なので、年に20回程度しか教室に来て、先生の前で同級生と机に向かうことはないが、通学のひとときも、そこで一緒にすごす仲間や教師との関わりも、生徒に新たな楽しみをもたらす。

難聴のせいで疎外感を味わい、ひきこもって生きてきた女性。貧困の中、世間に冷たい扱いを受け、人を信じることができなくなっていた男性。夫の世話に追われながら、自分らしく生きる場を見い出せなくなっていた女性。そんな人々が皆、教師や同級生と一緒に考えながらまなんでいく過程で、現役中高生のような友だちづくりや学校生活を楽しみ、より豊かな人間性を身につけていく。

それは単に、人生経験の豊富な高齢者だから起きたこと、というわけではない。教師たちが、知識の詰め込みや合理性を求める授業ではなく、一つひとつの知識に、一人ひとりの生徒がほんとうに触れて楽しみ、身につけていく喜びを大切にした授業をしているから、そして生徒たちの問題にも個別に親身になって向き合っているからこそ、可能になったのだ。

そんな学校教育が、全世代を対象に、全学校で行われていれば、日本人はもっと豊かな人生を歩めるだろう。貧しい国々でも、大勢の人が、たとえお金がなくとも、今よりずっと豊かに生きられるだろう。

この映画は、日本で、世界で、教育に携わる人たち、そして今教育を受けている子ども・若者たちに、ぜひみてほしい。

*この映画の公開は、3月25日。新宿K's cinemaにて、連日10:30モーニングロードショー。特別鑑賞券1000円発売中。

http://www.film-manabu.com

2017年1月8日日曜日

共感と連帯

朝日新聞で連載されていた「いま子どもたちは 西成で育つ」という記事で、大阪市西成区の児童館「山王こどもセンター」の子どもたちが、月に一度、「こども夜まわり」という活動をしていることが、紹介されていた。子どもたちが手作りのおにぎりと毛布やひげそりを持って、路上生活をしている人たちのところをまわる。地域の路上で寝泊まりする人たちのことをきちんと知ろうと、2004年からおこなっているそうだ。この活動を通して、「豊かな日本で、なぜ路上生活者がこんなにもいるんだろう」と疑問を抱いた中学一年生は、学校の自由研究で路上生活者に対する同級生らの印象と現実を比較し、そこにズレがあると感じる。そして、路上生活者への偏見をなくすために、同世代に正しい現実を伝える活動を始める。

この記事を読んだとき、子どものころから自分とは異なる人たちと直に向き合うこと、その現実をきちんと理解する(共感する)努力をすることが、いかに大切かを痛感した。それは、路上生活をする日本のおとな、途上国の子どもたち、誰に対してもそうだろう。

昨日、社会福祉関係者のイベントで講演をするために、鳥取県米子市を訪れた。昨年2月に出した『ルポ 雇用なしで生きる スペイン発・もうひとつの生き方への挑戦』を読んだイベント主催者の一人が、招聘してくださった。その方は、障がい者支援に携わっている、とてもパワフルで人間味溢れる女性で、誰もが普通に生きられる社会にしたいという思いを、講演前日、美味しいワインを飲みながら語ってくれた。

障がいをもつ人に対する偏見は、いまも根強く、彼らは障がいをもつというだけで、限られた環境、人間関係のなかに閉じ込められている。それは日本社会が、まだまだ異なる者を簡単には受け入れないという事実の、ひとつの現れだろう。一見、別の問題にみえるかもしれないが、路上生活者への偏見も、障がい者への偏見も、移民への偏見も皆、根にあるものは同じなのではないだろうか。

昨年2月に出した『ルポ 雇用なしで生きる』をつくる時の取材でお世話になった廣田裕之さん(バレンシア在住)が、最近出版した『社会的連帯経済入門」という本のなかで、日本人は社会的弱者に対する同情や、誰もが人間らしい生活を送る権利に対する意識に欠けると書いている。失業者や低所得者に対して、自己責任論を持ち出すこともその現れだと捉える。まったく同感だ。日本人はまた、「連帯」と言うべきところを、「ふれあい」といった表現にしたがる、とも。
廣田さんは言う。
「連帯は、理念や他人の行動に共感して支援し、一緒になって現状を変えてゆくこと」
で、それに対して、「ふれあいは、むしろ他人や動物などとの情的な交流が中心であり、社会変革を目指すものではない」。

「思いやり」も最近、「共感」という言葉とともに、日本人に好かれているが、ここにも落とし穴があると、私は感じる。思いやりは、確かに他人の気持ちを推し量る、想像することを指すが、多くの場合、対等な人間に抱く感情ではない。多様な人々が創る世界を想うとき、私たちはあくまでも周囲の人々と「連帯」することを目指すべきで、決して、同情や憐れみ、支援の気持ちだけで、他者と、異なる者と関わるべきではないと思うのだ。

昨夜テレビでみた若者の討論番組で、「いまの日本人は共感が得意で、むしろ共感しすぎじゃない、という場面が多い」といったことを指摘する人がいた。その「共感」は、たぶん波風たてないための同意や、楽に生きるための悪知恵で、本来の意味でのそれではないだろう。人の体験や感情を理解するというよりも、「だよね〜」と反応しておけば何となく平和に心地よくすごせる、といった感覚ではないかと想像する。が、本来、まず本当の意味で共感し、その共感のあとに、もう一歩踏み出して、その人(たち)とともに何かを成し遂げようとするのが「連帯」で、私は今世界で求められている姿勢は、それだと感じる。

乳幼児、高齢者、障がい者、失業者、移民、難民、世の中にいる様々な人たちが、対等な立場で互いに支え合い、助け合って、人間らしい暮らしのできる世界を創り上げていくためには、「連帯」を!そう言い続ける一年にしよう。「連帯」は、かつて左翼運動でよく使われただけの死語、ではない。