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2014年8月27日水曜日

子どもに嘘をついてはいけない

私たちのNGOのニュースレターに今、ドイツ文学者で「子どもの本/九条の会」メンバーの小澤俊夫さんが今の日本の状況を憂え、戦争中のことを語る文章を掲載している。そのなかには、戦時中の学校教育がいかにひどく、嘘に満ちていたかが綴られている。その記事を読んだ後、先日、テレビで「少年H」というドラマをみた。

そこでもやはり主人公、中学生であるH少年が、戦争中、学校を支配する軍国主義に疑問を抱き続ける姿が描かれている。学校には軍人が常駐し、子どもたちにどう考えても役に立ちそうにない軍事訓練を受けさせるだけでなく、印象派の巨匠マネの裸婦を模写したスケッチブックにけちをつけ、H少年を殴る者もいる。戦況が悪くなり、金属資源不足になると、校庭にたっている二宮尊徳の銅像を「徴兵」、そのために仰々しい儀式を子どもたちを集めて行う。まともな人間がみれば、ばかばかしい理不尽なことが、大まじめに押し付けられる。

そんな作品をみた直後、帰省する機会があったため、うちの父にそれらのことが実際にあったのか、尋ねてみた。というのも、H少年と父は同い歳だからだ。

父は、あったよ、と言う。銃を持って匍匐前進したり、毎週一度は天皇皇后の写真を全員で拝んだり、銅像の二宮さんは去り、代わりに陶器のものがやってきたり。とても自分たちの命を守るためにも、国のためにも役に立ちそうにないことを、いろいろやらされたが、無意味ではないかという問いかけをするにも、先生がそれを指示し、みんなが黙って従っているのだから、どうしようもなかった。「だから、戦争に負けた時、学校が荒れたよ。生徒はみんな、もう教師の言うことを信用しなくなった。校舎の窓ガラスを割ったりして、抗議の思いを表していた」と、父。

戦争の頃の子どもたちの声をきいて、改めて思う。教職にある者はもちろん、私たちおとなは、どんなときも常にできるだけごまかしや偽り、嘘を語らないように、物事を自分でよく考え、分析したうえで、子どもたちに伝えなければならないと。

「ストリートエデュケーター」と呼ばれる、路上の子どもたちを訪ねて歩き、支援をするNGO職員は、いつも言う。「路上暮らしの子どもたちは、よく約束を破る。でも僕らはいついつ会おうねと言ったら、必ずその時間にそこへ行かなければならない。そうでないと、子どもたちはますますおとなを信用しなくなる」。

誤って嘘を教えたら、訂正すればいい。だが、最初から嘘とわかっていること、嘘ではないかと自分が疑っていることを、子どもたちにあたかも真実のように伝えることは、大きな罪だと、私たちは自覚したい。








2014年8月8日金曜日

よいこは静かに遊べません

子どもたちが遊ぶための公園に、「よいこはしずかにあそべます。おおごえでさけばないでね」と張り紙がしてあるという。しかも、アンパンマンの絵付きだ。ええっ!!公園でワイワイとびまわり、はしゃいで遊んじゃいけないの?悪い子なの??!!

この張り紙を紹介した朝日新聞の記事は、社会(おとな)が子どもに対して寛容でなくなってきいてることを指摘していた。小学生が登校の際、校門のところで先生に、「おはようございます!」と元気にあいさつすることすら、「うるさい」という苦情の対象になっている地域があるという。母親たちも指摘していたが、もっと子どもを生んで育ててほしいという一方で、生んだ子どもが声をあげると、うるさいという社会というのは、いったいどういう社会なのか。

高齢化の問題とともに、子育て環境の問題が深刻な日本。どちらも、うまく対応していくには社会の人々みんなの理解と寛容さが大切な問題だ。が、日本社会ではむしろ、その理解への努力も自分とは異なる世代や感覚をもつ隣人たちへの寛容さも、どんどん減っている。

明日は、私たちの運営するNGO「ストリートチルドレンを考える会」で、「へいわって、どんなこと」というテーマで絵本を読み、メキシコで中学生対象に行われている非暴力ワークショップを行うが、そこでしっかりと語りあいたいのも、まさに、この「理解と寛容さ」だと考えている。

子どもはのびのびと大きな声を出してみたり、かけまわってみたり、おとなを困らせてみたりしながら、大きくなってこそ、ひとのやさしさやありがたみがわかり、思いやりのある、寛容な心をもつ人間になるものだ。

それを押さえつけるために、「よいこは−  」という言い方をして子どもたちを脅すのは、ある意味、お国のために戦わないのは非国民だ、というのと同じくらい理不尽な事だと、私は感じる。