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2014年12月21日日曜日

米・キューバ国交正常化の未来に想う

大ニュースとして、日本でも様々なメディアで取り上げられたこの出来事。キューバ市民はほとんど皆が喜んでいる、と報道されている。1990年からほぼ毎年通い続けたキューバの人々、友人、名付け子(親に何かあったときには面倒をみることになっている子ども。私たちの名付け子はまもなく二十歳になる青年だ)の未来を考えると、なかなか手放しには喜べないものが、私にはある。

日本人にとっては恐らく、陽気でリズミカルな音楽や踊りと野球やバレーといったスポーツのイメージしかないキューバだが、この国の人々は1959年のキューバ革命以降、様々な政治的、経済的苦難を乗り越え、今のキューバを築いてきた。今回、米国はキューバに歩み寄ることになったが、すでに報道されているオバマ大統領のこの決断の理由以外で見逃せないのは、これまで歩み寄りを許さなかった米国内の「勢力」がもはや力を失った、ということだろう。

90年代前半、私たちはあるCS放送の番組で、「ふたつのキューバ」というドキュメンタリーを作った。ふたつ、というのは、「キューバ」と「マイアミ」だ。革命直後から、マイアミには富裕層を中心に、カストロ政権とイデオロギーを異にするキューバ人たちが亡命し、腰を落ち着けた。そしてそこから武力攻撃や暗殺をはじめ、カストロ政権を倒すための様々な戦いを仕掛けてきた。と同時に、米国の政治・経済界でも重要な立場を占めるようになり、歴代政権の対キューバ政策に強い影響力を持ち続けてきた。ところが、社会主義圏の崩壊に伴う経済難民が、マイアミにたどり着くキューバ人の中心となり始めた90年代以降、マイアミのキューバ人社会自体が変わってきた。現在、頑に反カストロを叫んできた人々は高齢になり、在米キューバ人の多くが祖国との友好的な関係と自由な交流を望むようになっている。「ふたつのキューバ」をひとつにしたいという意思が、強まっている。

キューバの首都ハバナの市民は、ほとんどが米国に家族や親戚、友人を持つ。わが名付け子の周りをみていても、その数は年々増えているのではないかと想像する。だから、規制や手間なく米国との間を自由に行き来し、交流できることを望むのは当然だろう。特に若者にとって、海外へ行くのにいくつもハードルがあるというのは、いいことであるはずがない。日本人の若者なら、隣国へ旅行するのにいくつも書類を提出したり、何ヶ月もビザ待ちしたりしなければならないなんてことは、想像もできないに違いない。

キューバでは、昔から米国の音楽、テレビドラマ、ハリウッド映画など、アメリカン・カルチャーが普通に楽しまれている。わが名付け子の高校では、昼休みに校内のテレビモニターで「フレンズ」を流していたくらいだ。両国の関係が正常化して、自由な交流が深まれば、キューバの若者たちはもっとアメリカナイズされることが予想される。

今は、例えばキューバのネット環境は最悪で、ふつうの市民は一般にインターネットを利用できない。私たちのように、何でもネット検索できる、という状況は夢のような話だ。メールでさえ、自宅で使える人は限られており、大抵はメール専用のネットサービスセンターのような所に並んで入り、やっと送受信できるという感じだ。これが普通にネットを使えるようになれば、その影響力は計り知れない。

米国は、関係改善を通して何よりも、すでにキューバに経済進出している欧州やロシア、中国、韓国などに美味しいところを全部持って行かれる前に、かつてのような経済的影響力を確保したいというのが、本音だろう。そうだとすると、キューバにとって今後の課題はまさに、「革命以降築いてきたもの」をどのように受け継いで行くかを、真剣かつ慎重に考えるということだ。

米国からのモノと文化の大量流入は、どんなに経済的困難に見舞われても守ってきた無償の医療と教育、医者や識字教師を第三世界の国々に派遣し国際貢献する(シエラレオネにも多くの医師が派遣されている)という「キューバの心」、革命精神さえ、揺るがしかねない。21世紀、資本主義世界に足を突っ込むということは、中国やベトナムをみればわかる通り、極端な個人主義と格差を容認するということであり、そんな社会で平等の精神に裏打ちされた社会制度を維持することは、非常に困難だ。

様々な第三世界の国々で、ストリートチルドレンやスラムの人々、先住民など、底辺に追いやられた人たちを見続けてきた私たちにとって、「キューバの心」は大切に守って行きたいものだ。もちろん、わが名付け子には私たちの知る世界を自由に訪ね、キューバ国内の限られた選択肢の中ではなく、世界を視野に自分の能力を活かせる場所で学び働いてほしいが、それは「より(経済的に)豊かになれるように」という理由ではなく、より自分らしく生きるために、という意味でのことだ。つまり、キューバがどんなに米国と親しくなっても、忘れてほしくないのは、キューバ人が資本主義先進国へ行っても活躍できる、活躍できるという自信を持てるのは、キューバがすべての人に無償の教育を提供し、十分とは言えないまでも無料で国民の健康管理を続けてきたからだということだ。米国へ移民しても、貧しいメキシコ人の得られる機会とキューバ人が得られるそれとは、天と地ほども違う。中学も出ていないメキシコ人は、低賃金労働者として便利に使われるだけ。キューバ人のように企業で活躍できる人はほとんどいない。

キューバの人々をみていると、いつも考えさせられる。人が真に幸せになり、社会や世界に貢献する人間になるためには、単に教育を受けるだけでは不十分だし、単にお金をある程度持っているだけでも、自由に海外へ行けるだけでも駄目。ホセ・マルティが言うように、教養を身につけることで心と頭を自由にし、普通に暮らせる程度の経済力を持つなかで、異なる世界と人々のことをみる・考える視野の広さとバランス感覚を持つことが、大切なのではないかと。上ばかりみていても下ばかりみていても、右ばかりむいていても左ばかりむいていても、決して幸せにはなれない、ひとを思いやることはできない。

これからのキューバの闘いは、私たちが真に幸せで社会・国際貢献できる人間になるためにはどうすればよいかを模索する闘いでもあるのかもしれない。

2014年12月11日木曜日

若者たちの官邸前

特別秘密保護法が施行した昨日、官邸前には再び若者、元若者が1700人ほど集まった。私は知り合いの大学生が参加する「特別秘密保護法に反対する学生有志の会(SASPL)」がこの集まりを主催していると知り、出かけた。

開始時間の夕方6時に着くと、老若男女、様々な世代の人々の姿が夜の官邸前交差点に浮かんでいた。最初から、抗議行動用スペースと一般歩行者用スペース、車道が柵で分けられているのが、いつも気になる。ほかの国のデモや路上集会で、こんな光景はほとんどみたことがない。抗議行動の迫力を削ぐために、どっと集まれないようにしているとしか思えない。「ほかの人たち・車の邪魔にならないように」ということだが、邪魔になるくらいでないと、ひとはその切実さ、問題となっていることの深刻さを強く感じないものだ。

どのくらい人がいるのか確かめようと、うろちょろしていると、私の名を呼ぶ人がいる。一緒に本を作らせていただいたことがあり、私たち「ストリートチルドレンを考える会」の会員もである、絵本作家の浜田桂子さんだった。浜田さんら子どもに関わる仕事をされている作家たちも、この法律に抗議する運動をしている。行動する作家にそこで出会えたことで、元気が出た。

「若者たちが渋谷でデモした時も参加したのだけれど、リズムが違って、カッコいいのよね」と浜田さん。学生主導の集まりは、コールを上げるにもヒップホップのリズムとメロディーにのせて叫ぶから、歯切れが良い。なになにはんたぁ〜い、と叫ぶ中高年のそれとは確かに違う。

しばし叫ぶと、今度はスピーチの番が来る。最初に話した女子学生の言葉は、率直かつよく練られたもので、もっと大勢の若者に、おとなに伝えたいと思うと同時に、自分の学生時代の思いと重なるものがあり、共感を覚えた。

彼女は昨年も、官邸前で行われた大きな抗議集会に来たという。地下鉄に乗り、官邸前にたどり着くと、人の多さと熱気、叫びに圧倒され、自分には場違いではないかと感じて、結局その輪の中に入ることができなかった。そして地下鉄で帰路に着く。新宿まで行き、下車した彼女は周囲を見回した。と、そこにはこの世の中に何の問題もないかのように笑顔で通り過ぎる人々がいた。官邸前とここにいる人々のギャップ。それをみたとき涙が出たという。と、同時に、官邸前の場の雰囲気に圧倒され、一言も発せず意見を述べずに逃げてきた自分自身に腹が立ったとも。そして彼女は決意した。この国の民主主義と未来に関わることをきちんと自分で学び、考え、発言し、行動していこうと。

「無関心でいるうちに、市民が声を上げることができる可能性を奪われていく」、「忙しいことを理由に、勉強することから逃げていた。人々が戦い、勝ち取ってきた自由のもとに生かされていながら、自分では戦うことを放棄していた」、「平和は勝手に歩いてはこないんだ」---- 若者たちのスピーチには、多くのおとなが忘れている、たとえ気づいてはいても、自分の生活をややこしくしないために敢えて触れないようにしている真実が、たくさんちりばめられている。

私たちは彼らと同世代でも、もっと歳を取っていても、それに関係なく、ヒップホップでもラップでも演歌でもサンバでも、あらゆるリズムにのって、ともに声を上げるべき時にいる。上げるべき時に上げないと、70年前の戦争のようなことが起きる。福島の原発事故のようなことが起きる。それがわからない人は、鈍感なのか、想像力がなさすぎるのか、未来の人々に対する思いやりがなさすぎる自己中なのか、だ。

今年のノーベル平和賞を受賞したサティヤルティさんとマララさんのスピーチにも、世界の未来を思いやるメッセージが込められていた。私たちはそれを自分のものとし、行動で示さねばならない。
「知識を民主化し、正義を普遍化し、ともに思いやりを世界中に広げよう」
「空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性を目にすることを"最後"にすることを決めた、"最初"の世代になりましょう」