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2014年6月16日月曜日

世界を知る、ということ

思えばインターネットなるものが、わが人生に登場したのは、大学を出て、ずっと後のことだった。以来、海外情報を入手することは、格段に簡単になった。が、その分、真実を自分の目で確かめよう、確かめたい、確かめねば、という意識と意欲が、人々の間で、本来は冒険家であるはずの若者の間でも格段に薄れたと感じる。

今日発売になったわが新刊本の主人公たち、400年前の慶長遣欧使節のサムライたちは、それこそインターネットはおろか、テレビもラジオも世界のニュースを掲載する新聞や雑誌もないなか、主君に命じられたというだけの理由で、7年間も見知らぬ世界を旅した。
大和の時代からつながりが深かった朝鮮半島くらいしか、日本列島の外の世界を知らない彼らにとって、それはまさに大冒険。命じられなければ、考えもしなかったことだろう。しかもその旅は、いつ意図せずして終わるとも知れない、危険なもの。飛行機に乗って、時々乱気流に脅されながら次の目的地のことを想像してドキドキしながら進む、というような、のんきな旅ではなく、いつ命を落としてもおかしくない、苦しく長い道のりだった。
使命を託されたサムライたちは途中、使節の仲間を何人も失いながら、旅を続ける。そんな武者修行のような世界旅を追っていて、考えさせられた。
この者たち、ただ使命感だけで旅しているわけではないのでは? と。

辛い、苦しい、でも殿のため… だけでは、人間滅入ってしまう。 しかも彼らの旅先はラテン世界。日々を楽しむことを大切に生きる人たちの世界だ。7年もそんな環境に置かれて、その精神を学ばないはずはない。いや、自分なりに身につけ、使命をまっとうするためのタフなメンタリティを身につけたのではないか? そう思う。

世界を知る、ということは、実はそういうことだろう。他人が言うこと、映像でみせたこと、小さな紙や画面、モニターの中の”世界”は、誰かがその意思で切り取ったもので、私たち自身が出会ったものではない。いくら3D映像になったとしても、それは”バーチャル”ではあっても、ホンモノではない。

じゃあ現場へ行きさえすれば、知ることができるのか? いやそれも、どう触れどう向き合うかによるだろう。自分の意思とは関係のない形での出会い、経験があってこそ、人は本当の意味で、その世界を知ることができると思う。
パック旅行のように、”予定通り”が大半の旅体験は、概して真実を覆い隠す。悩むような経験の中からこそ、世界は語りかけてくる。

400年前、すでに東南アジアやアメリカ大陸、ヨーロッパにまで、商売のために旅したり、住み着いたりしている日本人がいた。あるいはキリシタン禁止令を受け、信仰のために移住した人たちも。そんな人々とサムライたちは、それぞれの立場で異文化世界を理解し、吸収し、サバイバルしていた。

彼らの思いを想像しながら、便利になったこの世の中で、しかし、400年前の旅に負けない驚きと真実を追い求めて、世界を知る旅を続けたいものだ。
そして若い人たちには、ぜひ、本当の世界を知る努力をしてほしい。それがあってこそ、格差しか生まないマネーゲームではない、本当のグローバル化、平等な世界は実現する。


























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