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2016年11月6日日曜日

ほんとうの世界基準を知る

「若者への励ましのメッセージを」と、開高賞をいただくことになった拙著『マラス』について取材に来てくれた若い記者に言われた。『マラス』では、ギャング団に入ることしか、生き方の選択肢が見えてこない中米の若者たちの姿を追っているのだが、限られた選択肢しか目に入らないような社会に生きている点では、日本の若者たちも同じ状況だろう。そこで私が思うのは、とにかくもっと自由に生きようよ!ということだ。
 高度成長後の日本社会では、おとながとにかく「いい大学を出て、いい給料のもらえる会社に入って、将来が保障された生活を手にする」生き方を、意識的にか無意識にかはともかく、子どもたちに「目指すべき人生」として教えてきた気がする。リーマンショックのようなマネーゲームに翻弄される新自由主義的資本主義社会の限界とほころびがみえるてきた現在、それはもはや「将来が保障された生活」をもたらす道であるかどうかすら怪しいが、それでも世間は子どもたちに、とにかく「良い学校」と「良い会社での正規雇用」を勧める。その道に進めない人間は人生の落伍者だ、とでもいいたげな空気が、この国にはある。しかし、よくよく世界を見渡せば、世界の大半の人々は、良い学校を出る機会のない場所で、良い会社に正規雇用されることなどなく、とにかく毎日を自分なりに懸命に生きている。そんな日々の中に、自分なりの目標を掲げて努力し、小さな前進の中に幸せを見出し、笑顔になる。将来が安定しているか、老後の蓄えがあるかなどという心配をし、不安のあまり沈みがちな毎日をすごす人間など、ほとんどいないだろう。老後よりも何よりも、今この時を生きることに必死だし、夢中だから、今日の挫折に悔し涙を流すこともあるが、今日のささやかな成功に人生の幸運を感じて家族と乾杯することも多い。つまりは、日本社会が自分に求めていると思われることができなくても、そっちのほうが世界では普通のことなのだから、全然問題はないのだ。
 いまどきの日本人は、グローバル・スタンダード=世界基準という言葉が好きだが、人間世界の「ほんとうの世界基準」といえる生き方は、どんな困難があっても、とにかく毎日を一生懸命に自分らしく生きることであって、先々の心配のために今を犠牲にしたり、世間の声に振り回されて自分を見失ったり、まわりがいうような生き方ができないことに絶望したりすることではない。ちょっと世界を見渡せば、そんなことは大したことではないとわかるはずだ。大丈夫、世間の理想と自分が違うのが普通。どうってことはない。人生の先輩たちは、もっと声を大にして、子どもたちや若者にそう伝えなければならない。
 若者へのメッセージは、「ほんとうの世界基準を知ろう」、世間の言うことなんか気にせず、自分らしい人生を、一日一日、歩んで行こう、ということだ。この国ではマスコミも皆、視野が狭くて、そういう世界基準をきちんとみせてくれないかもしれないけれど、インターネットもある時代だし、みんな、もっと世界に目を向けようよ。そうすればきっと、人生はもっと楽しくなるに違いない。

2016年6月16日木曜日

倫理コード

舛添氏の政治資金問題に関する発言を見ていて、「どんだけ感覚ずれてんの〜」と呆れると同時に、先月インタビューしたスペイン・バルセロナ市役所の行政チーム11名の一人、ガラ・ピンさん(35歳)を思い出した。彼女は市長のアダ・コラウと同じく、生粋の社会活動家。政治経験はゼロだが、市民の声をもっともよく代弁できる政治家の一人であることは、間違いない。市政を担う彼らは、昨年5月の統一地方議会選挙で政治変革を求める市民の後押しを受けて第1党となった、左派市民組織・政党の連合体「バルセロナ・エン・コム」のメンバーで、同党は議員としての行動に、独自の「倫理コード」を持っている。

わかりやすい例を挙げると、まず議員は二期以上は務めない。月収は役職に関係なく(市長を含め)、一律2200ユーロ(約27万円)以内で、それ以上はもらわない。外部の会議や行事に参加して余分に謝礼などが出ても、受け取らない。議員としての仕事は、「この範囲で遂行できる」からだ。

それでも、人は言う。「そんなことを言ったり、やったりしていられるのは、政治家になって初めの頃だけ。長くやっていれば、既存の政治家同様にやはり、汚職に手を染めるものだ」
 
この件、どう思うか?ガラさんに尋ねると、秘書と顔を見合わせ、困った顔をしながら、
「そもそも汚職って、どんな風にするのかしら?」
それから真面目な顔をして、こう話した。
「確かに長く今のままの政治世界に身を置いていると、どんなに善良な人間も悪いことをする羽目になるのかもしれません。だからこそ、私たちは倫理コードを設けました。でも政治制度を根本から変えることができれば、それもなくなるでしょう。そして私自身が政治に直接関わる上で何より大切にしているのは、自分がどこから来たのかを忘れず、常にそこに繋がっていること、です。例えば先日驚いたのは、他の党の議員の中には、私たち市民が"月末まで持たないわ〜”と言う時、それが意味していることを理解できない人がいたということ。そういう人たちに、市民のための政治はできません」

日本の政治家の皆さんも、ぜひガラさんたちのような倫理コードに基づいて、活躍してください。


2016年3月8日火曜日

「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児と現代日本の子どもたち

先日、NGO「ストリートチルドレンを考える会 (CFN)」の仲間が、昨年11月末の読売新聞に掲載された、「戦後70年 伝える」というシリーズ記事のひとつのコピーをくれた。そこに書かれていたのは、私が「ストリートチルドレン」の取材を始めるきっかけとなり、その後、共にCFNを創った故・相川民蔵さんが最初に「ストリートチルドレンのことを知りたい」とおっしゃった理由と重なる話だった。

1945年8月を都市で迎えた人の多くは、相川さんやこの記事の主人公、児童養護施設「愛児の家」の石綿裕さん(83)と同じ光景を目にしたことがあるかも知れない。戦争で家も親も失い、飢えに苦しみながら、駅の地下道でボロをまとい、垢だらけになって、悪臭を漂わせながら生きる子どもたちの姿を。記事は、そんな子どもたちを焼け残った自宅へ連れて行き、「自分の子」として育てた裕さんの母親と、共に暮らしてきた裕さんの話を紹介している。そこで語られる戦災孤児の姿は、私が初めてメキシコシティの路上で暮らす子どもたちと向かい合った時にみた姿と、あまりによく似ていた。

着たきり雀で物乞いをしたり、残飯をあさったり、時に盗みをしたりして生きのびる子どもたち。一緒に電車に乗ったり、レストランに入ろうとしたりすると、周囲がさーっと離れていったり、警備員が追い出しにきたり。「(そういう時に人々は、)汚れたものを見るような目を向けて。子どもたちは飢えだけでなく、この視線にも耐えてきた」と語る裕さん。メキシコシティで出会った子どもたちも、そうだった。

「子どもに必要なものは、あたたかい食事、そして一緒に食卓を囲む誰か」と、裕さん。屋台でタコスを食べたり、映画を観に行ったりしながら話をする時のストリート少年も、ふだん仲間と路上でシンナー類を吸ってラリっている時とは打って変わって、饒舌になった。笑顔が増えた。

「愛児の家」には現在、親はいるが一緒には暮らせなくなった子どもたちが生活している。「虐待を受けた子もいれば、離婚時に自分を押し付け合う両親の姿を見てきた子もいます。自分の存在を否定されてここに来るのです。本当の孤児より気の毒かもしれません」
。そう話す裕さんの言葉が、家を飛び出して路上に来ざるを得なかった子どもたちとも重なる。

記者のコメントの中には、現代の日本に生きる子どもたちが置かれた、厳しい現実が示されている。曰く、「飽食の時代といわれる今、貧困や虐待が理由で親と離れて暮らす子どもは、3万9000人。終戦直後3万5000人いたとされる浮浪児の数を超えた」。

私たちのNGOには今でもたまに、中高生や大学生が、「ストリートチルドレンについて調べているのですが」と、質問に来ることがある。そんな時、自分たち、日本の子どもたちのことも頭において、調べたり、考えたりして欲しいと話す。私の中では、相川さんにきいた「戦災孤児」の姿と、様々な国で出会った路上の子どもたち、日本の養護施設にいる子どもたち、一見ふつうに生活しているが、自分の存在を肯定された経験が薄いために、ささいなことから大きな問題を起こしたり、人生に希望を持てなくなってしまったりする子ども・若者たちが、同じ世界の住人に思えてならないからだ。

おとながもたらした社会のゆがみ、世界の矛盾が、子どもたちを追い詰める。その構図はいつの時代もどの場所においても、変わらない。おとなはそれを自覚して社会を見直し築き直す、子ども・若者もそれに気づいたら、抗議の声を上げる。そんなところから、社会を変えて行かなければならない。

2016年2月21日日曜日

雇用なしで生きる

昨年6月にスペインの地方選挙の話を書いて以来、放りっぱなしになっていたブログ。いかんいかんと思い、そのスペイン話で復活させることに。

まさにそのとき書いたことに関係する本が、3日前に無事発刊となった。4年前の2011年5月15日起きた市民運動15M を追い始めてから、取材を重ねてきたテーマをまとめたものだ。タイトルは「雇用なしで生きる」。今や良き友人となったスペインのフリオ・ヒスベールさんが書いた本からいただいたタイトルだ。それはある意味、象徴的なタイトルで、要は既存の経済、社会、政治のあり方を見直し、生き方そのものを変えようというメッセージを込めたものだ。

政治、経済、社会の変革。それは今、この日本でも真剣に議論される必要性に迫られていること。だが、多くの場合、どれかに偏り、実際の行動はひとつのことにのみ限定されがちな気がする。それをつなげて考え、行動しているのが、スペインで政治運動や社会的連帯経済に関わる市民だ。そのネットワーク力を、ぜひ私たちも学びたいと思い、この本を書いた。

私自身は大学を出てからずっと、雇用なし、のフリーランスだが、それがかなり特殊に見られるうえ、やっていくのに苦労する社会が、日本だ。なぜそうなるのかを考えれば、おのずとこの社会が抱える不自由さ、管理主義、過剰なまでの企業信奉による資本主義支配の奇妙さに気づく。働くことに喜びを見い出すことがむずかしい社会、「喜びを見いだしているよ」と言う人も実は「働くこと」ではなく、「それで得られるお金や地位」に喜びを見い出しているのではないかと疑いたくなることも多い。いわゆるお金や、いわゆる地位につながらない労働をする者は、価値がないかのようだ。

その矛盾に気づくことが、これからの日本の未来を、世界の未来を明るくする。
余談だが、さきほどテレビ「日曜美術館」で、蓑虫山人という放浪の画家の話をみて、まさに「雇用なしで生きる」の理想のような人だなぁ、とうなった。全国各地で野宿をしたり、ひとに世話になったりしながら、絵を描く旅をする。宿や食事の礼に絵を置いて行く。そう、お金も地位も目的じゃない仕事(活動?)で自由かつ幸せに生きる。なんとすばらしいことか!それが受け入れられる社会が、150年ほどまえはここにもあった。