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2017年1月8日日曜日

共感と連帯

朝日新聞で連載されていた「いま子どもたちは 西成で育つ」という記事で、大阪市西成区の児童館「山王こどもセンター」の子どもたちが、月に一度、「こども夜まわり」という活動をしていることが、紹介されていた。子どもたちが手作りのおにぎりと毛布やひげそりを持って、路上生活をしている人たちのところをまわる。地域の路上で寝泊まりする人たちのことをきちんと知ろうと、2004年からおこなっているそうだ。この活動を通して、「豊かな日本で、なぜ路上生活者がこんなにもいるんだろう」と疑問を抱いた中学一年生は、学校の自由研究で路上生活者に対する同級生らの印象と現実を比較し、そこにズレがあると感じる。そして、路上生活者への偏見をなくすために、同世代に正しい現実を伝える活動を始める。

この記事を読んだとき、子どものころから自分とは異なる人たちと直に向き合うこと、その現実をきちんと理解する(共感する)努力をすることが、いかに大切かを痛感した。それは、路上生活をする日本のおとな、途上国の子どもたち、誰に対してもそうだろう。

昨日、社会福祉関係者のイベントで講演をするために、鳥取県米子市を訪れた。昨年2月に出した『ルポ 雇用なしで生きる スペイン発・もうひとつの生き方への挑戦』を読んだイベント主催者の一人が、招聘してくださった。その方は、障がい者支援に携わっている、とてもパワフルで人間味溢れる女性で、誰もが普通に生きられる社会にしたいという思いを、講演前日、美味しいワインを飲みながら語ってくれた。

障がいをもつ人に対する偏見は、いまも根強く、彼らは障がいをもつというだけで、限られた環境、人間関係のなかに閉じ込められている。それは日本社会が、まだまだ異なる者を簡単には受け入れないという事実の、ひとつの現れだろう。一見、別の問題にみえるかもしれないが、路上生活者への偏見も、障がい者への偏見も、移民への偏見も皆、根にあるものは同じなのではないだろうか。

昨年2月に出した『ルポ 雇用なしで生きる』をつくる時の取材でお世話になった廣田裕之さん(バレンシア在住)が、最近出版した『社会的連帯経済入門」という本のなかで、日本人は社会的弱者に対する同情や、誰もが人間らしい生活を送る権利に対する意識に欠けると書いている。失業者や低所得者に対して、自己責任論を持ち出すこともその現れだと捉える。まったく同感だ。日本人はまた、「連帯」と言うべきところを、「ふれあい」といった表現にしたがる、とも。
廣田さんは言う。
「連帯は、理念や他人の行動に共感して支援し、一緒になって現状を変えてゆくこと」
で、それに対して、「ふれあいは、むしろ他人や動物などとの情的な交流が中心であり、社会変革を目指すものではない」。

「思いやり」も最近、「共感」という言葉とともに、日本人に好かれているが、ここにも落とし穴があると、私は感じる。思いやりは、確かに他人の気持ちを推し量る、想像することを指すが、多くの場合、対等な人間に抱く感情ではない。多様な人々が創る世界を想うとき、私たちはあくまでも周囲の人々と「連帯」することを目指すべきで、決して、同情や憐れみ、支援の気持ちだけで、他者と、異なる者と関わるべきではないと思うのだ。

昨夜テレビでみた若者の討論番組で、「いまの日本人は共感が得意で、むしろ共感しすぎじゃない、という場面が多い」といったことを指摘する人がいた。その「共感」は、たぶん波風たてないための同意や、楽に生きるための悪知恵で、本来の意味でのそれではないだろう。人の体験や感情を理解するというよりも、「だよね〜」と反応しておけば何となく平和に心地よくすごせる、といった感覚ではないかと想像する。が、本来、まず本当の意味で共感し、その共感のあとに、もう一歩踏み出して、その人(たち)とともに何かを成し遂げようとするのが「連帯」で、私は今世界で求められている姿勢は、それだと感じる。

乳幼児、高齢者、障がい者、失業者、移民、難民、世の中にいる様々な人たちが、対等な立場で互いに支え合い、助け合って、人間らしい暮らしのできる世界を創り上げていくためには、「連帯」を!そう言い続ける一年にしよう。「連帯」は、かつて左翼運動でよく使われただけの死語、ではない。