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2015年1月14日水曜日

お金だけの問題ではない、「上」と「下」の違い

ある新聞の連載記事で、ある裕福な家庭の若者と養護施設育ちの貧しい若者の声を紹介していた。

社会の「上」に属する裕福な家庭に育った大学生は、社会貢献活動に熱心な貧困家庭出身の同級生と仲良くなり、ともに海外ボランティアをした経験から、貧困問題に関心を抱き、それに関わる将来、就職を考えるようになる。そして思う。そんなことを考えながらも、特に必要とはいえない洋服やバッグ、メイクにお金をかける自分は、まずそうした行動自体を改めるべきかも知れないと。同時に、自分を社会問題に目を向けるように導いてくれた友人が、職種を問わずにとにかく安定した収入のある就職を目指すと言うのをきいて、考える。彼女のほうが社会のことをずっとよく考えているし、行動する才能があるのに、何がやりたいかで職を選ぼうとできないのは、やはり経済的な制約のある環境で育ったせいだろうか、と。

社会の底辺、「下」にいる若者は、養護施設やそこからの就職先など、さまざまな場面で知り合った人たちに助けられながら、やりがいのある仕事に就き、多くはないがそれなりの収入を得て、順調に未来へと歩んでいる。が、まわりには、自分と同じように恵まれない子ども時代を送ったために、将来に夢を抱けない知人が大勢いる。そうした現実をみて、思う。ひとが「下」に居続けるか抜け出せるかの境目は、お金だけではなく、ひととのつながりの有無ではないか、と。

大学生の頃、メキシコの貧困層の研究を始め、スラムの友人たちと出会った私も、それ以来、考えるようになった。おしゃれのような、必ずしも必要ではない物にお金をかけることは、間違っているのではないか、と。そして徐々に服などにお金をかけることを控えるようになった。今じゃ、かけたくてもかけるお金がないが、それ自体も不自由だとは感じなくなった。そして思う。何かの時にほんとうに頼りになるのは、ひととのつながりだと。

「下」の若者が言うように、貧しい者をより悲惨な状況へと追い詰めるのは、お金がないという事実よりもむしろ、その状況から生み出されることの多い、まわりとのつながりの欠如だ。記事の若者は、本人の性格や周囲の環境もあってだろう、困った時にはいつも力になってくれる人が現れ、ひとのつながりが広がり、人生も開けていった。が、貧困層の若者の多くは、「お金があってなんぼ」の社会で、しだいに人付き合いを失い、ひととのつながりをなくし、その作り方も忘れてしまい孤立することで、ますます貧しさに追い込まれて行く。追い詰められると、思考は狭まり、問題解決の方法もみえなくなり、人生の選択肢も狭まる。

私たちは、「上」にいようが「下」にいようが、ひととのつながりによって生かされ、幸福に暮せるのだということを忘れずに、それを忘れそうな人をみつけたら、手を差しのべることのできる人間になりたいものだ。