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2014年6月13日金曜日

「家族」と「自分の道」がもたらす力

昨日、3時間をこえるドキュメンタリー「遺言 原発さえなければ」をみた。
画面で、語り合い、嘆き、怒り、笑い、励まし合う福島の酪農家たちの言葉や姿を、そこに居合わせ見聞きしているような気分で追いながら、いろいろなことを考えた。映画をみた、というよりも、目の前の人々に様々な問いや問題を投げかけられているような感覚で、過ごした.

放射能との闘いを強いられ、戦場にいるようだと語る女性は、亡くなった父親が戦争体験を話そうとしても聞く耳をもたなかったことを悔やんでいた。みえない危険、心を埋め尽くす恐怖を前に、父親が戦争をどう感じ、どう乗り越えて生きて来たのか、知っておけば良かったと思ったのだろうか。

妻子を異国に避難させ、ひとり家と牛を守る日々に絶望し、「原発さえなければ」という遺言を壁に書き残して、自ら死を選んだ弟の心境を考える姉たちは、一様に、一人でいたことが良くなかったと話した。福島で追い詰められてゆく被災者への支援を最優先にせず、ころころと首相を変えることに明け暮れる国会、政治家への怒りを口にした。

チェルノブイリのあとでさえ原発を使い続けた(そして使い続ける)人類とは、なんと愚かなんだという、酪農家のため息混じりの叫びが、再稼動を論じる人々の耳には届かないのか?

食卓に何本も並んだ栄養ドリンクの瓶が、笑顔で闘う人々が抱える底なしの疲労を物語る。

重荷を背負い、絶望感に押しつぶされそうになりながらも、夫は何とかこれからも酪農家の人生を切り開いていくのだという強い意志と使命感からだろう、冷静にあらゆる現状分析をし手段を見つけては、次々と手を打つ。そんな夫を支える妻も、「あんたが大事だから」と寄り添い続ける。夫婦で晩酌をする姿に、改めて、人はどんなモノよりも愛する人の支えと信頼によって生かされているのだと感じる。

生活のために他県の農場での仕事を提供され、働きに行った若手の酪農家も、サラリーマン形式のそこでの仕事が自分の目指す酪農とはちがうと感じ、おもしろくないからね、といった感想を述べながら、そのうち別の選択肢を探りたいと話す。
そんな彼とほかの若手&ベテラン酪農家たちが一緒になって、のちに県内でも放射能に汚染されていない土地に、新しい農場を開く。原発事故で多くを失ったうえに、新たな借金まで抱えての出発だが、酪農家たちの顔は思いの外、輝いてみえる。

見終えて一番強く感じたのは、ひとは(血縁の有無に関係なく)家族がそばにいて、どんな状況であれ自分が信じる道をもち、それを進む意志を持ち続けられれば、幸せになれるのではないか、ということだ。その可能性を持てない、奪われている人間は、幸せを感じられない、不幸になる。これまで自分が取材してきた路上の子どもたちや先住民ゲリラ、フィリピン台風被災者たち・・・らも、その点においては同じだと思う。

映画の最後に東京での講演会で、酪農家たちは「行動」の必要性を語る。私たちは悲劇を知る、語る、書くだけではだめなのだ。脱原発へ向けて、行動しなければ。
それは、私たち人間が、未来においても、家族とともにそれぞれ自分らしい道を探して歩んで行ける環境を守るために、必要なことなのだから。




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